2016/07/05

セシウムを飲んだ男たち 悲劇か英雄か/チェルノブイリ

2016年7月5日 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ710343J6ZPTIL03H.html

チェルノブイリ原発事故のあと、「歩く放射性物質」といえるほど体が汚染されたロシア人原子力研究者がいた。体内汚染を測る装置を調整する「基準汚染物」になるため、自ら大量の放射性セシウムを飲んだ。これは、原子力が生んだ悲劇なのか、「英雄的行為」なのか。

私がチェルノブイリ事故の汚染地を初めて訪問したのは1990年6~7月のこと。1カ月かけてロシア、ウクライナ、ベラルーシを回った。帰国後、千葉県内の施設にある小部屋のようなホールボディーカウンター(全身カウンター)で内部被曝(ひばく)を測った。「セシウムの排泄(はいせつ)半減期は約90日ですが、セシウムがかなり残ってますね」といわれた。条件が異なれば半減期も異なるだろうが、「人間の排泄速度を知るには毎日測るのか」などと思ったことを記憶している。

体内にある放射性物質を測定するホールボディーカウンター。
椅子に座ったまま測定できる=2016年3月、
ベラルーシ・ミンスクのアトムテックス社、竹内敬二撮影

内部被曝といえば、長い間気になっていたことがある。チェルノブイリ事故から9カ月後の87年1月、ソ連の医療調査団が来日した。被爆者の治療データ、長期間の追跡システムなどを「唯一の被爆国」日本に聞きに来たのだ。私は広島で一行を取材した。

そのとき、調査団の一人、パーベル・ラムザエフ氏(当時57歳)は「ロシアでの測定値と比較したいので、私の内部被曝レベルを測って欲しい」と求めた。

測定した日本の研究者は驚愕(きょうがく)することになる。「日本では、もう少しであの人は放射性物質になるレベルです。そうなると取り扱いに資格がいる」

私が「その結果を聞いて彼は何と言いましたか」と聞くと、「ロシアでの測定と同じ、と平気だった」。

ラムザエフ氏は当時、レニングラード(現サンクトペテルブルク)にある放射線衛生学研究所長だった。チェルノブイリ原発の現場に通っていると聞いていた。「放射能を知る人が汚れたものをそれほど多く食べるとは思えないが」「原発事故現場はそんなに汚れているのか」という疑問が残った。

来日したソ連の医療調査団。1987年1月、広島市内の原爆養護ホームで。
左端がパーベル・ラムザエフ氏

そして29年後の今年、本当のことを知ることになった。私は今年、チェルノブイリ30年を取材する中で、この話をもう一度調べたくなった。ラムザエフ氏はすでに死去していたが、息子のワレリー・ラムザエフ氏と連絡がついた。何と父親と同じ分野の研究者で、現在は父親と同じ研究所の主任研究員だ。

彼は驚くべきことを教えてくれた。「父は1986年の秋、志願して同僚の研究者5人と一緒に、セシウム137とセシウム134を計37万ベクレル摂取した」

放射能溶液を飲むなどして摂取したのである。

目的はロシアがもっていた全身カウンターの感度などを調整することだ。自分の体の汚染状態は分かっているので、各地の装置で自分を測ればそれらの装置を簡単に調整(キャリブレーション)して、測定のズレをなくすことができる。

87年の広島での測定は、大量のセシウムを飲んでからあまり時間がたっていないので、まだ体内にいっぱい残っていたのだろう。

通常は、人間の形をした人形の中にセシウムを入れたものを測って調整する。「ファントム=疑似人間」といわれた。ラムザエフ氏は「歩くファントム」になった。

放射能を飲むこと自体に驚くが、私はその量に驚いた。37万ベクレルは、10万分の1キュリー。日本の基準では野菜や肉などの一般食品は、摂取の上限が1キロあたり100ベクレルだ。その上限の食品を一気に3700キロ食べた計算になる。

放射能をこれだけ飲むとどうなるのか。「必ず○○の病気になる」とは言えないが、不気味だろう。もし私が彼だったら、「がんになるにしても何年も先。そのころは結構な年になっているし……」といった計算をしただろう。若い人や子どもでは絶対に許されない。

ラムザエフ氏以外にも志願者は5人いたという。どういう思いで飲んだかは知る由もない。

ただ、チェルノブイリ事故が起きる前にも、ラムザエフ氏らはセシウムを飲んで体内での移動や排泄などを調べていた。量は不明だが、以前から体を張っていたのである。

チェルノブイリ事故を取材する中では、こうした「身を危険にさらす行為」にしばしば出合った。

事故では炉心が爆発し、火災が起きた。激しい放射線の中で消防士や原発職員らが消火活動に従事した。約30人が急性放射線障害で死亡した。

爆発で飛び散った炉心のがれきを片付けるとき、あまりに高い放射線でロボットも動かなかった。そこで若い兵士が動員された。悲しいかな高放射線の下でも人間はしばらくは動く。

空中から消化材や砂を原子炉に落としたのはヘリコプターだ。最初は動きながら落としたが、うまくいかず、高さ200メートルでホバリングした。こうした作業に動員された人たちは種々の病気に苦しんでいる。

忘れてならないのは、原子力という技術には、本質的にこうした命がけの事態が起こりえるということだ。チェルノブイリでは、その地獄のフタが本当に開いてしまった。福島も似たようなものだ。

自らの判断で行う、命令で突入する、あるいは雰囲気として強制される――。さまざまな形があるだろうが、大事故になれば誰かがやらなければならない局面に出くわす。

37万ベクレルの放射能を志願して飲んだ、というのも、似た行為だろう。これをどう評価するか。私は原子力推進の科学者の「矜持(きょうじ)、責任感」のようなものを感じた。「そんな大事故は起きない」ではなく、可能性をリアルに考える。逃げない姿勢を評価したい。

37万ベクレルという量について息子のワレリー・ラムザエフ氏も「大変に多い」という。彼は「かつての自分の体の汚染」との比較で説明した。

ワレリー氏は、チェルノブイリ事故によってロシアでは最も汚染された町といわれるブリャンスク州の町ノボズィプコフに住んでいた。事故後に何度も自分の体を測ったが、ピークは1995年測定の「約2万ベクレル」だった。

なお「2万ベクレル」というワレリー氏の体の汚染も大きかったため、90年代後半には、今度は彼と他の住民の体を「基準物」に使って各国の測定装置の調整を行ったという。ロシア、日本、フィンランド、ドイツの装置などだ。親子で「歩くファントム」になったということだ。

パーベル・ラムザエフ氏は2002年に心臓発作で亡くなった。息子のワレリー氏は「内部被曝とは無関係だろう」という。

もしパーベル氏が福島の事故まで生きていたとしたら、何と言っただろう――。ワレリー氏にそう尋ねると、彼はこう答えた。

「それは分からない。でも、被災者のことを第一に考えたと思う」

(竹内敬二の窓)     ◇

たけうち・けいじ 朝日新聞で科学部記者、ロンドン特派員、論説委員、編集委員などを務め、環境・原子力・自然エネルギー政策、電力制度などを担当してきた。温暖化の国際交渉、チェルノブイリ原発事故、3・11などを継続的に取材。著書は、電力業界が日本社会を支配するような社会産業構造がなぜ生まれたかを描いた『電力の社会史 何が東京電力を生んだのか』(朝日選書、2013年)。

ペルミ地方では核爆発で運河をつくる「タイガ計画」があり、核爆発が実施された。
2009年、その現場で撮影。
右端がワレリー・ラムザエフ氏。左からE・フラムツォフ、A・メドベージェフ、V・ヤコブレフの各氏。
4人はタイガ計画による放射能汚染の共同研究者=ワレリー・ラムザエフ氏提供

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