2016/06/30

【報道まとめ】除染廃棄物の再利用方針を決定 環境省

<原発汚染土>「8000ベクレル以下」なら再利用を決定

2016年6月30日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160701/k00/00m/040/063000c 

東京電力福島第1原発事故に伴う福島県内の汚染土などの除染廃棄物について、環境省は30日、放射性セシウム濃度が1キロ当たり8000ベクレル以下であれば、公共事業の盛り土などに限定して再利用する基本方針を正式決定した。同省が非公式会合で盛り土の耐用年数をはるかに超える170年もの管理が必要になると試算していたことが発覚したが、基本方針では「今後、実証事業で安全性や具体的な管理方法を検証する」と表記するにとどまり、管理期間には言及しなかった。

福島県大熊、双葉両町にまたがる中間貯蔵施設に保管される除染廃棄物は最大2200万立方メートルになると見込まれる。国は2045年3月までに県外で最終処分する方針で、できるだけ再利用して処分量を減らしたい考え。




基本方針では、再利用は管理主体などが明確な公共事業に限定し、1メートル離れた場所での追加被ばく線量を年間0.01ミリシーベルト以下に抑えると明記。同8000ベクレルの汚染土を使う場合、50センチ以上の覆土をし、さらに土砂やアスファルトで覆う対策を取るという。

ただし、原子炉等規制法では、制限なく再利用できるのは同100ベクレル以下。環境省の非公式会合で、同5000ベクレルの廃棄物が同100ベクレル以下まで低下するには170年かかる一方、盛り土の耐用年数は70年とする試算が出ていた。

基本方針では、再利用後の管理期間の設定や、管理体制の構築について触れられておらず、原子炉等規制法との整合性を疑問視する声も上がっている。環境省側は「管理期間や方法については、モデル事業を通じ、今後検討を進める」(井上信治副環境相)との姿勢だ。【渡辺諒】




除染廃棄物の再利用方針を決定 環境省

2016年6月30日 日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30H7O_Q6A630C1CR8000/

東京電力福島第1原子力発電所事故に伴う福島県内の除染廃棄物を巡り、環境省は30日、放射性セシウム濃度が基準以下となった土などを全国の公共工事で再利用する基本方針を正式決定した。再利用は管理責任が明確な道路などの公共工事に限定する。

工事中の作業員や周辺住民の被曝(ひばく)線量が年間1ミリシーベルト以下となるよう、放射性セシウム濃度を1キログラム当たり5千~8千ベクレル以下に設定。さらに土やコンクリートで覆うことで、工事終了後の住民の被曝線量を年間0.01ミリシーベルト以下に抑える。〔共同〕




環境省 除染土壌の再利用方針まとめる

2016年6月30日 日テレニュース24
http://www.news24.jp/articles/2016/06/30/07334091.html

福島県内の除染で生じた大量の土壌について環境省は、放射能が低いものについては道路工事などに再利用できるとする考え方をまとめた。

除染で生じた土壌の再利用は、最終処分場の容量の観点から処分する量を少しでも減らすために環境省が検討してきたもの。

30日に決定した考え方では、例えば放射能が1キログラムあたり8000ベクレルを下回る土壌を道路工事に再利用する場合、表面に50センチメートル以上の厚みの盛り土を被せ、さらにアスファルトで覆えば被ばくが十分に抑えられるなどとしている。しかし、汚染土壌を再利用した場合、放射能が十分に減衰するまでその場所をどのくらいの期間どのように安全管理するかなどはいまだ決められていない。

環境省では、今後、安全管理の方法について検討し策定するとした上で、汚染土壌の再利用に国民の理解を得たいとしている。




汚染土再利用の方針決定=管理方法なお検討-環境省

2016年6月30日 時事通信
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016063000791&g=eqa

環境省は30日、東京電力福島第1原発事故後の除染で出た福島県内の汚染土について、放射性物質の濃度が1キログラム当たり8000ベクレル以下に下がったものを道路整備などで再利用する基本方針を正式決定し、公表した。夏にも同県南相馬市で実証事業を始める。

環境省はこれに関連し、再利用した汚染土の濃度が原子炉等規制法の安全基準である同100ベクレル以下まで減衰するには170年かかると試算。長期間どのように管理していくか、有識者会合で引き続き検討する。

2日、赤井中(いわき)第1号 学校除染土の大熊、中間貯蔵への輸送

2016年6月30日 福島民報
http://www.minpo.jp/news/detail/2016063032379

環境省が7月2日開始で調整していた県内学校施設から大熊町の中間貯蔵施設予定地への除染土壌輸送はいわき市の赤井中から始まる。同9日からは須賀川市の認定子ども園「オリーブの木」、同中旬には郡山市の西田中から輸送する予定で調整している。同省が29日、発表した。

同省によると、赤井中からの輸送は午前10時40分から始まり、この日で終わる見込み。オリーブの木は1日では終わらない見通し。西田中は土壌を保管している郡山市の根木屋小旧校舎跡地から運び出す。輸送業者の選定を含め市町村教委を通して輸送体制が整った学校などから期日を調整している。

輸送する日は基本的に土曜日だが、学校側の都合に合わせ対応する方針。大型トラックで1日最大約20往復し、搬入先の大熊町夫沢の町有地である「公園ふれあいパークおおくま」の駐車場に仮置きする。
大熊町の渡辺利綱町長は29日に会津若松市の町役場会津若松出張所で開いた町議会全員協議会で報告し、議会側が了承した。

農林水産物のセシウム濃度 5年で大幅低下

2016年6月30日 日本農業新聞
http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=38079 

農水省は、農林水産物の放射性セシウム濃度が、東京電力福島第1原子力発電所事故が発生した直後の2011年度から15年度までに大幅に低下した検査結果を、ホームページで公表した。毎年1000万点以上を全袋検査をする米の他、15年度は20万点を超える検査をし、基準値(1キロ当たり100ベクレル)超えは5点。これらは市場に出荷せず、米を除く全体に占める割合も0.002%にまで減っている。

「個人線量マップ」作製 ソフトウエア開発、東京電力HPから入手

2016年6月30日 福島民友
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20160630-088305.php

東京電力福島復興本社は29日、個人線量計と衛星利用測位システム(GPS)端末を活用して個人線量マップを作製するソフトウエアを開発したと発表した。ソフトウエアは東電のホームページ(HP)から無料で入手できる。東電によると、個人線量計とGPS端末で測定された実際の被ばく線量や位置データをインターネット上の地図に落とし込むことで、個人線量マップが作製できる。通学や通勤などの移動時や、自宅などにいる滞在時の個人線量が可視化できる。マップ上には、1時間当たりの被ばく線量に応じて、5段階に色分けされて表示される。

マップの作製にはデータをパソコンに移すことができる個人線量計やGPS端末などが必要。東電はソフトウエア活用の相談や線量計の貸し出しなどにも応じるとしている。

復興本社代表の石崎芳行副社長は「ソフトウエアの活用で住民の安心につなげていきたい」と語った。

個人線量マップのイメージ画面。滞在時と移動時の個人線量が、
被ばく線量に応じて5段階に色分けされて地図上に表示される





[福島日報ダイジェスト] 福島食品モニタリングダイジェスト6月15日

(フクシマン・マサさんメルマガより転載させていただきます。http://ameblo.jp/masa219koro/ からメルマガ登録できます。子ども全国ネット)

6月15日に福島より発表された「農林水産物緊急時モニタリング検査結果」によりますと、郡山市、猪苗代町、西郷村等で 農産物、畜産物及び水産物など336検体について、 放射性セシウムの検出検査が行われました。 
その結果、国の定めた基準値100Bq/kgを超える数値が検出された検体はありませんでした。
測定下限値を超える数値が検出された検体は、全体の約5%に当たる17件でした。そのうちの主な品目と数値は次の通りです。

楢葉町産のキツネメバル1件から 40.1Bq/kg
福島市横川産のイワナ1件から 36.2Bq/kg
福島市天戸川産のイワナ 1件から 27.2Bq/kg
福島市菱川産のイワナ1件から 23.1Bq/kg
二本松市原瀬川産のヤマメ1件から 21.5Bq/kg
浪江町産のキツネメバル1件から 18.9Bq/kg 
いわき市産のババガレイ2件から 17.4Bq/kg、15.7Bq/kg
金山町沼沢湖産のヒメマス1件から 14.8Bq/kg
広野町産のババガレイ2件中の1件から 13.6Bq/kg
浪江町産のヒラメ1件から 13.1Bq/kg
いわき市産のイシガレイ2件中の1件から 12.0Bq/kg
広野町産のマコガレイ1件から 11.2Bq/kg 
白河市阿武隈川産のアユ1件から 11.2Bq/kg
いわき市産のコモンカスベ3件中の1件から 9.44Bq/kg

以上、福島県発表「農林水産物緊急時モニタリング検査結果」を ダイジェストにしてお伝えしました。

詳しくお知りになりたい方は、福島県のHPより「ふくしま新発売」、厚生労働省 および、 郡山市のHPより「食品中の放射性物質の検査結果について」をご覧ください。

なお、この情報は、フェイスブック上からも確認できます。カタカナで「フクシマンマサ」(福祉Manマサ)と検索して下さい。


※「福島市で20マイクロ超え」~5年目のホットスポット~ユーチューブにて拡散中
https://www.youtube.com/watch?v=nIdRQus0oM4&list=PL5wSh_51rMzoR1QIUmDGDtrKGI1UfoQRs

※現在厚労省ダイジェスト福島県版は、ココラジ(郡山市のコミュニティーラジオ)で放送中の、「放射性物質検査結果報告」の放送原稿をお借りして、投稿させていただいています。

ココラジ(FM79.1Mz)の、「放射性物質検査結果報告」の放送時間は、毎週「月曜~金曜」の、「午後16時40分」になります。スマホやパソコンから全国での視聴も可能です。
参照:http://www.kocofm.jp/

※過去のダイジェストが見たい方は、こちらへ…
http://ameblo.jp/masa219koro/
(アメブロにアドレスから入れない方は、タイトル「フクシマンの福島リポート」で検索してみて下さい)

※ダイジェストのメール配信のお申し込み方法:
fukushimanippou@gmail.com
に、空メールを送るだけで簡単登録できます。

※映像版のホームページもあります。
http://fukushiman.jimdo.com/

【報ステ】宮城・ホヤ大量廃棄へ 原発事故が影響

2016年6月29日 テレ朝ニュース
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000078108.html

宮城県女川町の竹浦漁港で水揚げされた「3年物から4年物」のホヤ約1万4000トンが出荷されないまま廃棄処分される。理由は原発事故の影響だ。2013年9月以降、韓国が輸入を禁止していることなどで生産が過剰になっている。ホヤは県漁協が9月までに順次処分し、堆肥に加工されるという。


2016/06/29

除染土を公共事業に利用する計画で汚染が拡散される恐れ

2016年6月29日 週刊女性プライム
http://www.jprime.jp/tv_net/saigai/28874

横浜市の小中学校17校で、高濃度の放射能汚泥が置かれたままになっていることが発覚。8000ベクレル以下の除染土を公共事業で再利用する計画も進められ……。

3・11から5年、福島原発事故で日本中にまき散らされた放射能汚染の影響は、今なお続いていた。



■汚染も被ばくも小さく見せる計画

汚染は終わっていない。3月末時点で確認されている指定廃棄物は12都県で約17万トン。また福島県内での除染処理によって集められた汚染土等は、2千万立方メートルに及ぶ。最終処分場は素案すら発表されていない。

そんな中、環境省は恐るべき計画を打ち出した。『環境エネルギー政策研究所』所長の飯田哲也さんが指摘する。

「3月に発表した、8000ベクレル以下の除染土を公共事業に利用する計画で、覆土などをしたうえで再利用しようというものです。汚染が拡散される恐れがあります」

小さくして、閉じ込めて、人間社会から隔離する。それが放射性物質を扱う際の大原則だが、環境省の計画はこの真逆を行く、と飯田さん。

「目前の問題に追われているうちに場当たり的な対応しかできなくなっている。再利用しか出口がないとして、そこで突破を図ろうとしています」

加えて、指定廃棄物を再計測して8000ベクレルを下回った場合、指定を解除し、市町村が管理型の処分場への埋め立て処分などをして処理できる新ルールも決定。

「放射能の影響を軽視して、被害を小さく見せる動きが強まっている。住民の健康と福祉を尊重する姿勢がすっ飛ばされて、自治体が強引に突き進めてしまうということが今後、いろんなところで起きるかもしれません」(飯田さん)

「福島事故でまき散らされた放射性物質のうち、特に汚染度の高いものは環境省が責任をもって処理すると、国は自治体や国民に約束しました。ところが前述した横浜市の問題や、指定廃棄物の指定解除による市町村への責任転嫁、除染土の再活用基準の見直しによる汚染物の全国へのばらまきとなって次々にほころびつつあります」(青木さん)
〈週刊女性2016年7月12日号〉

2016/06/28

地上保管分から搬入 来月から中間貯蔵施設に 学校敷地内の除染土壌 環境省/福島

2016年6月28日 福島民報
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2016/06/post_13883.html 

環境省は学校などの敷地内に保管されている除染土壌の中間貯蔵施設予定地への搬入について、地上に保管されている分から始める。7月中に開始する予定で、仮置き場に移した土壌の扱いは平成29年度に検討する。27日、郡山市で開いた市町村との輸送に関する連絡調整会議で示した。

校庭など敷地内の地上に保管されているか、地中から掘り起こしを進めている土壌を優先して運び出す。各市町村への聞き取り結果を基に、早期に輸送できる量を約1万立方メートルと算出した。大熊町が無償貸与を申し出た町内夫沢の「公園ふれあいパークおおくま」の一角に保管場を整備して搬入する。同省は各学校の土壌の保管状況や搬出に向けた意向などを引き続き確認し、7月上旬をめどに実施スケジュールなどをまとめる。

会議に出席した市町村の担当者からは「仮置き場に運び出した土壌についても早く受け入れてほしい」などとする意見が出た。

県によると、県内の小中学校や高校、幼稚園、保育所などには約30万立方メートルの除染土壌が保管、埋設されている。国などは児童生徒の健康への配慮を理由に中間貯蔵施設予定地である大熊、双葉両町に町有地の活用を要請していた。

平和をたずねて 核の傷痕 続・医師の診た記録/24 被ばく労働者の「傷痕」

2016年6月28日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160628/ddn/012/040/049000c

原発はメルトダウン(炉心溶融)をきたす大事故に至ると、私たち人間の手に負いかねる。チェルノブイリや福島が例示している。問題はそれだけにとどまらず、稼働を続けるうえで労働者の被ばくが避けられない。

約40年にわたり「被ばく労働者」を診てきた阪南中央病院(大阪府松原市)副院長の村田三郎医師は、原発についてこう言い表した。「巨大な科学技術の陰に原始的な被ばく労働者がいる、それが原発なのです。残念ながら、作業員の健康被害は避けられません」

村田さんが原発作業員の放射線障害を初めて診たのは1973年夏のことである。大阪大学医学部を卒業して付属病院に勤める研修医だった。男性患者の岩佐嘉寿幸(かずゆき)さんは、右膝の内側に直径約10センチの黒褐色の炎症が認められ、右脚は浮腫で腫脹(しゅちょう)していた。

当時50歳の岩佐さんは阪大病院を訪れる2年前の71年5月27日、日本原子力発電敦賀原発(福井県)の原子炉建屋内で冷却水系のパイプに穴を開ける作業に従事した。皮膚科の田代実医師は半年間かけて岩佐さんの検診を続け、原発内部の立ち入り調査を行った末に「放射線皮膚炎(右膝)、2次性リンパ浮腫(右下腿(かたい))」とカルテに書いた。

村田さんは、田代医師の研究室に気安く出入りしており、岩佐さんの症状を確認している。「ベータ線熱傷の典型的な症状でした」と振り返り、こう説明する。「放射線による火傷で、事故後の福島第1原発で汚染水に触れた作業員にも同じ症状が見られました」

岩佐さんが敦賀原発で作業をしたとき、「計画停止」による点検と補修作業の最中だった。大阪市内の水道管工事会社に勤めていた岩佐さんは、熟練工の腕を買われた。

岩佐さんは作業服で身を包み、万年筆のようなポケット線量計を首から下げて、原子炉格納容器の入り口付近で作業を始めた。狭い場所に材木やパイプなどが散乱して雑然としていた。立会人は誰もいなく、岩佐さんは右膝を床面につけてパイプに穴を開ける作業を2時間半ほど続けた。

原発での作業は一度きりだったが、それから8日後、岩佐さんは高熱とけだるさに襲われる。右脚に赤いかぶれと水ぶくれができ、痛みを伴った。医院を転々としても原因がわからず、2年を経て阪大病院にたどり着いた。村田さんは「岩佐さんに出会って、原発の劣悪な労働環境を知りました」と述懐する。以来、村田さんは被ばく労働者に寄り添ってきた。

高知県生まれの村田さんは子どもの頃、教師の両親に連れられて平和行進に参加した。原水爆禁止運動の盛んな地域で、反戦・反核の教師として知られた父親は、口癖のように息子の村田さんに語りかけた。

「弱い人の立場で行動しろ、そうしていたら間違いはない」

岩佐さんの「核の傷痕」に思いをはせるにつけ、村田さんは、父親の言葉をかみしめるのだった。
=広岩近広
(次回は7月5日に掲載)

関西電力 株主総会 加速する再稼働に待った 福島事故で金沢に避難、75歳が「脱原発」議案

2016年6月28日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160628/ddf/041/020/018000c

沖縄電力を除く電力9社の株主総会が一斉に開かれた28日。神戸市中央区で開催された関西電力の株主総会には、東京電力福島第1原発事故で福島県田村市から金沢市に自主避難している浅田正文さん(75)が株主となって初めて出席し、脱原発などを求める議案の説明に立った。原発再稼働を目指す関電の経営陣に「廃炉で一歩先んじる電力会社になろう」と呼びかけた。

大手食品会社のコンピューター技術者を務めていた。阪神大震災が起きた1995年、「人生の後半は田舎でのんびり暮らしたい」と早期退職し、東京都世田谷区から福島県都路村(現・田村市)に移住。自然農法による自給自足の生活を始めた。

四季の変化は美しく、住民たちも農地を無償で貸してくれたり、農作業のやり方を教えてくれたりと温かく迎えてくれた。村内に廃棄物の処分場を設置する計画が持ち上がった際には、村議に立候補して当選し、反対運動を盛り上げて計画を断念させた。

原発に疑問を抱くようになったのは移住後だ。自宅は福島第1原発から約25キロの距離にあり、東京では報道されない細かいトラブルをニュースで目にする機会が増えた。東電株を取得して株主総会に出席し、脱原発の提案をするようになった。

そんな中で2011年3月の事故が起きた。除染対象となっていない近所の雑木林の山菜からは、高濃度の放射性物質が検出されており、自給自足の生活は難しくなった。事故後に自ら命を絶った知人もいる。「二度とこんな悲劇を繰り返してはならない」。東電や避難先の金沢市を管内とする北陸電力の株主にもなり、総会で脱原発への転換を訴えた。

今回、関電の株主総会に出席しようと思ったのは、再稼働への動きが加速しているからだ。関電は福井県内に持つ9基の原発の再稼働を目指しており、最近も高浜原発1、2号機の40年を超える運転が原子力規制委員会に認められたばかりだ。「原発銀座」と呼ばれる福井・若狭湾の地図を眺めるといつも心配になる。「1カ所で事故が起きた時、周囲の原発は本当に管理できるのか」と。

株主総会では、福島の小学生が事故後につづった作文を読み上げた。「地震や津波や原発事故で、なくなった人やけがをした人がたくさんいます。震災の経験をむだにせず、ぼくたちの手でよりよい地球をつくりだしていかなければならないと思います」。この願いは浅田さんの思いとも重なる。【大久保昂】

福島原発事故で金沢市に自主避難している関電株主の浅田正文さん
=神戸市中央区で2016年6月28日午前9時58分、大西岳彦撮影

株主反応さまざま

神戸市中央区で開かれた関西電力の株主総会の会場周辺では、市民グループなどが横断幕を掲げ、脱原発議案に賛同するよう呼びかけた。株主からはさまざまな反応があった。

岡山市東区の男性(85)は「原発はなくした方がいい。福島のような事故が起きないとは断言できない」と話した。大阪府交野市の男性(63)は「長期的にはゼロを目指すべきだ」としつつ、「現状では原発を動かさなければ電気料金が下がらず、中小企業は困る。当面は使うしかないのでは」と複雑な心境を明かした。兵庫県西宮市の男性(76)は「厳しい安全基準を課しているのだから信用するしかない。復配に向けて早く動かすべきだ」と主張した。【大久保昂】

「このままなら」株式売却も示唆 吉村大阪市長

関電の株主である大阪、京都、神戸の3市の市長が総会に出席し、意見表明をした。

神戸市の久元喜造市長は「高浜原発3、4号機の運転差し止めの仮処分決定で、電気料金値下げが見送られた。経営基盤を原発に依存している関電の体質では顧客の引き留めもできない」と批判した。

京都市は脱原発を求める株主提案などをした。門川大作市長は「福島原発事故の傷痕は深刻。関電は原発依存から抜け出すべきだ」と意見を述べた。

関電株を8・92%保有する筆頭株主の大阪市は、取締役の定数を半減させた上で過半数を社外取締役にするよう求める株主提案も行った。吉村洋文市長は総会での発言後、報道陣に「このまま経営刷新を図らないのなら、大阪市が株主であり続けるのはどうか」と述べ、株式を売却する可能性も示唆した。

環境省、東和を再選定 二本松仮設焼却施設、きょうから説明会/福島

2016年6月28日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160628/ddl/k07/040/084000c

東京電力福島第1原発事故で汚染された稲わらなどの放射性廃棄物を焼き、体積を減らす仮設焼却施設を二本松市東和地区に建設する環境省の計画が、地元住民の反対運動で候補地見直しとなっていた問題で、同省が再び東和地区を候補地に選定していたことが27日、同省への取材で分かった。同省は28日から4日間、住民説明会を開き理解を求める。

同省は二本松市、本宮市、大玉村の3市村で出た10万8000トンの放射性廃棄物を二本松市で焼却処理する方針。2014年に東和地区にある市の自然公園内に建設する計画を住民に示したものの、「近くに小中学校や水源地がある。放射能汚染の恐れを否定できない」などとして地区住民の約7割が反対する署名を市に提出した。

これを受け、同省は15年5月、「市内全域で候補地を探す」として計画見直しを表明。県内各地に建設する焼却施設で唯一、設置場所が決まらない事態となっていた。だが、今回、再選定した候補地は前回から約1キロ南の民有地となった。

東和地区の住民で建設に反対する服部浩幸さん(47)は「環境省は住民の意思を無視している。『東和地区ありき』だ」と憤る。同省の担当者は「建設用地の面積などを考えると、東和地区が唯一の候補地だった」と話している。【土江洋範】

原発事故汚染ごみ指定解除を申請 千葉市が全国初

2016年6月28日 テレ朝ニュース
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000077983.html

福島第一原発事故の放射性物質に汚染されたごみについて、千葉市が全国で初めて指定の解除を求める申請書を提出しました。

環境省は今年4月、福島原発の事故で汚染されたごみの放射性物質の濃度が1キロあたり8000ベクレルを下回った場合、一般のごみと同じ処分ができるとしました。これを受け、千葉市が市内で保管する7.7トンの汚染ごみを改めて測定したところ、放射性物質の濃度が1キロあたり4000から6100ベクレルの間に下がったことが分かり、28日に汚染の指定を解除するよう求める申請書を環境省に提出しました。原発事故による汚染ごみの指定解除が申請されるのは全国で初めてです。環境省は今後、審査したうえで問題がなければ来月中にも指定を解除する見通しです。

原爆症認定や水俣病の裁判に携わった弁護士・尾藤廣喜さんインタビュー

2016年6月28日 カタログハウス
https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/160628/?sid=top_main

「福島原発事故から5年たったいま、大規模母数・同一方法による健康診断の継続と手記などの行動記録を残すことが必要です」

東京電力福島第一原発事故は、発生から5年経った現在もさまざまな面で
継続しています。そのひとつが、甲状腺がんをはじめとする健康被害。原爆症認定や水俣病裁判の弁護団を務めた尾藤廣喜さんは、「被ばく影響を考慮した健康診断と、手記などの行動記録を永年保管すること」の必要性を訴えています。その理由を伺いました。
取材・文/中村純




──福島県が実施する「県民健康調査」では、甲状腺がんの悪性ないし悪性疑いと診断されている人は166人。手術で甲状腺がんと確定した人は116人となりました(2016年2月15日 第22回福島県「県民健康調査」検討委員会の報告による)。
検討委員会では、「福島における甲状腺への等価線量被ばくは、チェルノブイリと比較して低い」という見解を確認されています。福島県での小児甲状腺がんの多発は、原発事故との因果関係を認めることはできるのでしょうか。

尾藤 甲状腺がんの多発と原発事故の因果関係について、国や東京電力は徹底的に争ってくるでしょうから、最終的には裁判をして原因者の責任を明確にするまで、確定できないことになるかもしれません。この裁判には、多くの疫学的データが必要です。しかし、原発事故から5年で甲状腺がんが多発しているという「事実」は大きい。今は、この事実に、国や東電、福島県や避難した方たちのいる地域の医師がどう対応するか、ということなのです。十分な疫学的データもない現段階で「放射線の影響は考えにくい」と結論づけることはできないはずです。ましてや、福島県以外のエリアは十分な健康調査もしていない。国はもっと広い範囲で健康調査をするべきです。

──因果関係を確定するにせよしないにせよ、いまはまだ十分な疫学的データがそろっていないということですね。

尾藤 そうです。日本は原爆被害を経験しています。また、ビキニの水爆被害を経験している。当然、放射線による人体への影響はあり得るものとして人々の健康管理をするべきです。小児甲状腺がんが事実上多発しているなら、当然原発事故の影響が「あり得る」ことを考慮しながら、国や県が大規模で継続的な健診を続けるべきなのです。

──尾藤さんは厚生省出身で、水俣病京都訴訟弁護団事務局長や原爆症認定集団訴訟全国弁護団副団長を務められました。水俣病と原爆症認定裁判から、福島原発事故後の健康管理で参考にすべきことはどんなことですか。

尾藤 放射線による被曝の被害は、短期的な被害だけでなく、長期的な被害が大きな問題となります。原因者(福島第一原発事故においては、東電・国)は、この被害に対して、将来放射線によるものかどうかという起因性を必ず争ってきます。補償の金額を抑えたいからです。 因果関係を原因者に認めさせるためには、被害者に立証が求められます。被爆後70年以上経った原爆症の認定でも、公式発見後60年経った水俣病の裁判でも、加害企業であるチッソと国は原爆症・水俣病の病像(病気を特徴づける症状などの性質)について徹底的に争っています。

1993年11月、水俣病京都訴訟勝訴判決後の環境庁前にて。
中島晃弁護団副団長や学生支援の皆さんとともに。

例えば水俣病では「有機水銀と疾病の因果関係」、原爆症認定では「放射線と疾病との因果関係」を被害者が立証しなければならないのです。水俣病も原爆症も、ほかの原因で発生した症状と区別すること自体が難しい。水俣病には特異性のある症状もあるのですが、放射線の影響は全身に及びます。現在、甲状腺がんだけが問題になっていますが、高血圧、心筋梗塞、肝機能障害、免疫機能への影響として、C型肝炎やB型肝炎なども起こり得るのです。そういった症状が、早くて10年後、遅ければ30年、40年後に出てくる。

加害者側は、「加齢による影響ではないか」「放射線と関係はありません」と必ず言ってきます。因果関係を証明するには疫学が極めて重要です。それでも「放射線を浴びていない人と比べて有為の差がある」ということを被害者側が証明する必要がある。そのために健康調査をして、健康の推移を明らかにしていく。できるだけ多くの母数で健診をし、これを長期継続していく必要性の理由は、ひとりひとりの単発的な健診や診療では変化がわからず、他との比較もできないからです。「大規模母数であること、健診内容の共通性、データの共有制、長期継続性」が因果関係の立証に大きく寄与するための条件です。

原爆症について70年以上経って認定を問題にできる理由は、比較的長期間の、しかも多数の被爆者のデータがあったからです。米軍がABCC(原爆傷害調査委員会)で「原爆の効果を確かめたい」という軍事目的で被爆者のデータを収集しました。私たちはそのデータとその後の放射線影響研究所のデータを公開させ活用し、被害の救済という目的に使いました。

水俣病認定が混迷している理由は、被害者のデータが少ないからです。加害企業のチッソも国も、調査をしなかった。水俣の健康調査は、一部の医師たちが手弁当でしたのです。医師の原田正純先生(注1)や、藤野糺先生(注2)など熊本県民医連の医師たちの努力がなければ、水俣病被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。

(注)原田正純…鹿児島県出身の医師。熊本大学医学部卒業。水俣病と有機水銀中毒に関して、患者の立場から徹底した診断と研究を行なった。著書に『水俣病』(岩波新書)など。『水俣が映す世界』(日本評論社)で大佛次郎賞を受賞。

(注)藤野糺…熊本大学の水俣病第二次研究班のメンバー。1970年6月から水俣病患者を診察するようになり、治療も補償もされず生活苦にあえいでいた多くの患者を目のあたりにし1974年1月に水俣診療所を設立した。

──現在の健康管理という理由だけでなく、将来、がんや疾病が起きたときに、原発事故による放射線との因果関係を立証するためにも、大きな母数の継続的な健診が必要ということなのですね。

尾藤 大規模な範囲で原発事故の影響のある母集団だけでなく、事故影響の比較的少ない地域の母集団の健診データを集めて、比較のための材料を保存することも大切です。福島県内だけでなく、すべての被害者が救済の対象になるようなシステムを、今から作っておく必要があります。福島第一原発の事件は、今のままにしておいたら、健康被害があっても、泣き寝入りをさせられてしまうでしょう。市民団体が実施している手弁当の健診だけでは、疫学的データとしては不完全です。甲状腺がんのことですら「放射線の影響はない」などと言われているわけでしょう。

放射線被害は、甲状腺だけが現在話題になっていますが、原爆の経験からすれば、もっともっと広い範囲の症状が問題となり認定されています。原爆の放射線被害としては、すべてのがん(胃がん、肝臓がんなど)や、心臓疾患(狭心症・心筋梗塞)、肝機能障害、甲状腺機能低下症、糖尿病などについても、因果関係が認められています。甲状腺エコー検査だけでなく、血液検査・心電図・診療カルテの保管など、総合的な健診記録が必要です。

──福島原発事故後、関東では市民が「関東健康調査基金」を立ち上げて、自分たちで甲状腺エコー検査機を購入して集団健診を続けています。東日本や西日本の避難者には、民主医療団体連合会(民医連)が健診を行ない、2014年度末までに3772件(2016年度末は集計中)の実績があります。私は「内部被曝から子どもを守る会・関西」をつくり、京都民医連・京都府保険医協会とともに、京都府下に避難している方々への無料健診をしているのですが、健診は保険診療ではないのでひとり6500円の健診費用がかかり、その予算を確保するのも大変です。

尾藤 本来は、加害企業の東電や国・行政が健診を実施し、費用負担すべきです。もともと国が大々的にプランニングして健診を組織しなくてはならないのです。

──福島の県民健康調査も納得のいかない思いを持たれている方たちも多いのですが、福島県内では一番大きな調査ではあります。原爆のあとのABCCの調査を情報公開させ、認定裁判に利用したように、福島の県民健康調査も、のちに情報公開をさせてデータとして利用するという方法もあるでしょうか。

尾藤 水俣病でも、県の調査は一定の方向に結論をもっていこうという調査だったので、被害が出ていても無視されました。国や県や加害企業に、調査をさせなければならないけれど、それについてのデータの公開と民主的な検証が大切です。その検証がなければ、国や県や加害企業の調査は信用できない。だから民間で健診をせざるを得ないという過渡期の時期はあると思います。

御所浦島の被害者掘り起こし調査。村井豊明弁護士とともに。

水俣病のときは、医師がボランティアで住民の悉皆(しっかい)調査を行いました。熊本県民医連の医師たちが、後に全日本民医連をあげての取り組みとなる水俣の近くの桂島の住民の全員の調査(注3)をしました。全員調査をしないと、疫学調査としては意味が少ない。加害企業は「サンプリング調査ではデータに偏りがあるから、何の意味もない」と必ず言ってきます。

(注)桂島の住民の全員の調査…桂島は水俣市から南西に12km離れた離島。1975年、水俣診療所の藤野医師と当時のスタッフは、この桂島を汚染地域として調査し、鹿児島県奄美諸島の一漁村と比較する疫学調査を開始する。その結果、桂島の住民は奄美地域と比較して、感覚障害、視野狭窄、その他の症状が有意に多く、感覚障害のみの患者から、ハンターラッセル症候群の症状(運動失調、言語障害、ふるえ他)を持った最重症の患者まで多彩な病像を示していた。この研究により、感覚障害のみを有する水俣病の存在が医学的に示され、検診を受けた桂島の住民の多くが水俣病に認定されることになった。

──広島では、被爆者手帳がありましたね。

尾藤 被爆者手帳を求める運動があり、その結果国の責任で、各都道府県レベルで、被爆者が希望すれば無料で健診受診ができるようになり、データの継続的な保存もできるようになりました。しかし、原爆症の認定制度は実は財務省の予算枠で決まり、被害者実態に依拠しているものではありませんでした。そのため、私たちが訴訟を起こし、被爆者認定制度を実態にあわせる運動をしました。

福島原発の被害範囲は、広島・長崎の原爆より広範囲にわたります。しかし、ほとんど健診データを取っていない。10年後、20年後、放射線でがんが発生したとしたら、健康被害を立証するためには、データが必要です。

──本来は福島県だけでなく、東北・関東で、原発事故で放射能が拡散したと思われるエリア全体での健診が必要ですね。

尾藤 関東でも多く放射線被害の影響があると思います。心配です。

──関東では、市民たちの要請に基づき、希望すれば健診を受け、助成を受けられる体制をとっている自治体もあります。常総生協と市民たちが、「関東健康調査基金」を立ち上げ、自分たちで健診を実行しておられます。「放射能からこどもを守ろう関東ネット」という市民団体は、自分たちで健診実行委員会を結成されているほか、自治体や国に健診と助成の交渉をしているそうです。千葉県の柏市、我孫子市、松戸市、茨城県の牛久市、常総市、つくば市など、関東の自治体の複数で甲状腺エコー検査と助成をするようになっています。

尾藤 正しい活動だと思います。大規模健診の実施と記録の保管、自治体・国との交渉、さらに原発事故被害者の健康管理手帳を求めることが必要です。

──原発事故後、京都府におられる避難者の「避難移住者の手記」(内部被曝から子どもを守る会・編)を2冊編集制作しました。各地で、避難者・被災者の方の手記も発行されています。裁判のときの行動記録として手記も有効ですか?

尾藤 原爆症裁判のときに、原告の方と同じ地域の方の手記を探してきて、原告の被爆した地域の状態の証明に役立てました。原爆投下後に家族や親類などを探して広島市に入った、いわゆる入市被爆者の認定でも、手記は有効でした。

同様に、原発事故後の行動記録、手記、健康データは、将来の被害回復や症状の認定裁判のためにも本当に大切です。

水俣病の裁判でも、「どのような症状がいつごろからあったか」ということが、いつも問題になっています。原爆症の認定では、「初期症状とその後体の状態がどう変化したか。いつどのような病気になったのか」ということが、認定に役立ちました。

──原爆症や水俣病の認定のために、闘っている人たちを動かしてきたものは、どのようなことだと思われますか。

尾藤 水俣病や原爆の被害者と接していて感じたことは、「自分がこのような状態になっているのは何が原因か」という責任の所在を明らかにしたいという「思い」でした。お金の問題ではないです。亡くなる直前でも、生きているうちに原爆症や水俣病の認定を受けたい、という方たちは「自分の体がこうなったことの責任を明らかにして問いたい」という、人としての尊厳に動かされていました。
2006年5月12日、近畿原爆症認定訴訟全員勝訴判決の日に、原告の皆さんとともに。

今から30年前、法律扶助協会から頼まれて原爆症認定裁判の代理人をお受けしました。京都在住の小西建男さんという方が、弁護士をつけずに訴訟をしているから、扶助協会の京都支部で代理人になってくれ、という話でした。私はかつて厚生省に在籍していたので、原爆のことがわかるだろうということでした。私は、厚生省では医療保険と生活保護の担当でしたから、原爆のことは素人でしたが、誰も引き受ける人がいなかったので引き受けました。

当時小西さんは生活保護を受けておられましたので、「被爆者が認定され、手当てがでるようになれば、手当は収入認定されて、生活保護費は打ち切りになるかもしれない。小西さんにとっては、経済的メリットはないですよ。それでもいいですか」とお話しました。小西さんは「そんなことはわかっています。私は、国の命令で京都府の亀岡から和歌山、さらにモールス信号をマスターするために、広島の船舶通信補充隊に派遣され、兵舎で原爆に遭いました。私を徴用した国の行為と、米軍の原爆投下という行為によって、私は被爆させられた。私は一般の生活保護という福祉を受けるのではなく、原爆症の認定によった原爆の給付を受けたい。それは同じお金ではないのです。被爆者として生きていきたいのです」とおっしゃったのです。私はこの「思い」に感激しました。

──原発事故の自主避難者の住宅支援があと1年で打ち切りになり、福島県に帰還する方たちもおられます。避難継続を希望する世帯の所得に応じて、公営住宅の優先入居の応募が受けられる「福祉・支援施策」を実施している自治体もあります。本来は、避難者の住居や生活は、国と福島県、東電が補償すべき問題ですね。

尾藤 一般の福祉施策ではなく、原発事故があったことによって受けた被害に対して加害者から補償を受け取るというのが正当な要求です。小西さんの場合と同様、福祉としての支援ではなく、原因者による補償を実現するのが私たち弁護士の仕事です。

国や県が、勝手に原発事故影響地域の線引きをして、「安全宣言」をする。放射線は低レベルでもがんは発症し得るのに、勝手に安全だと宣言して帰還を促して補償は打ち切る。東電、国は企業の利潤と財政を考えて補償をできるだけ抑えたいのです。本来は、東電と国が責任を持つべき問題です。被害は完全に救済されなくてはならない。これは、人間の尊厳の問題なのです。


尾藤廣喜(びとう・ひろき)1947年、香川県生まれ。京都大学を卒業後、1970年に厚生省(現・厚生労働省)入省。1975年、京都弁護士会に弁護士登録。水俣病京都訴訟弁護団事務局長や原爆症認定集団訴訟全国弁護団副団長を務める。貧困・生活保護の問題にも取り組み、日弁連・貧困問題対策本部副本部長、生活保護問題対策全国会議代表幹事、全国生活保護裁判連絡会代表委員。著書に『生存権』(共著・同成社)、『これが生活保護だ――福祉最前線からの検証』(共著・高菅出版)ほか。最新刊に10名の執筆陣による共著『ここまで進んだ! 格差と貧困』(新日本出版社)がある。

保養/ゆったり北海道 十勝の夏休み7/24~8/6

むすびば十勝より 残り3枠
https://www.facebook.com/events/590261594476225/

私たち “むすびば十勝”では、東日本大震災の被害と
それに伴う原発事故後に際し 同じ親として
『十勝でも何かできることはないか』と考えました。

放射能の影響を大人の何倍も受けてしまうのは、未来を担うこどもたち。
2011年から 夏休みを利用してのべ50名を超える子供たちを
2週間の保養活動に 受け入れています。

北海道でゆったり のびのび過ごし、豊かな自然や道産食材をふんだんに使った食事
多様なプログラムを用意して思い出に残る 夏休みを過ごしてもらいたいと思っています。

「むすびば十勝」では震災を機に十勝に移住された方々の交流支援活動、被災地や放射線量の高い地域に暮らすみなさんへの支援事業を応援しています。

●具体的な事業概要●
⑴受入期間 7月24日(日)〜8月6日(土)まで

⑵参加資格 福島や、関東、東北、など
ホットスポット周辺に住む4〜6年生
(福島原発の事故による放射能被害から一時避難させたいと思っているお子様)

※母子参加 若干枠あり。ご相談ください。
(母子参加の場合 お子様の年齢制限はなし)

※保養求める多くの家族に 公平なチャンスを与えるため、今年からリピーター不可とさせていただきます。ご理解とご協力をお願いいたします

⑶日程
◾️7月24日 新千歳空港集合
(※9時から13時までの航空券を各自ご手配ください。
スタッフが到着出口まで迎えに行きます。プラカードが目印です)
日高青少年自然の家移動 オリエンテーション歓迎会
検尿ベクレルチェック
日高青少年自然の家宿泊

◾️7月25日 ハイキング(雨天時クラフト作り)
日高青少年自然の家宿泊

◾️7月26日 ラフティング体験
日高青少年自然の家宿泊

◾️7月27日 釣り体験 自由時間
日高青少年自然の家宿泊

◾️7月28日 帯広へ移動 各自ホームステイ先へ
ホームステイ

◾️7月29日 NPO法人ぷれいおんとかち にてパントマイム鑑賞
ホームステイ

◾️7月30日 おびひろ動物園 ホームステイ
◾️7月31日 そば打ち体験 ホームステイ
◾️8月1日音更町集団研修センターへ移動
むすびば十勝バーベキュー交流会
音更町集団研修センター宿泊

◾️8月2日 然別ハイキング
音更町集団研修センター宿泊

◾️8月3日 鹿追プール
帯広市内へ移動 ホームステイ

◾️8月4日 ザリガニバスターズ
ホームステイ

◾️8月5日 ネイチャーゲーム
お別れ会 桜木町ピンニの森 検尿ベクレルチェック

ホームステイ
◾️8月6日 新千歳空港 (各自出発ロビーにて解散 )
※13時から18時までの航空券を各自ご手配ください 帰宅

※諸般の事情により変更もあり得ます

⑷ 参加費用及び条件等
●参加費として1人10,000円をご負担ください (2週間の飲食費 宿泊費 込み)
●ただし就学援助を受けている家庭は無料 (申込の際お知らせください)
●集合解散場所の新千歳空港までの交通費は各自でご手配ください

⑸ お申込方法
ゆったり北海道十勝の夏休み 仮申込書を ダウンロードし
ご記入いただきメールや郵送でお申し込み下さい。
申込書→ https://1drv.ms/w/s!AgTsDsF2BWLbxX8c8FYviOLu5iU4
(直接書き込まずに、必ずダウンロードしてご記入下さい。開いたページのメニューバー、右はじの「…」をクリックすると、ダウンロードが出てきます)
(お電話でも お申し込みお問い合わせ受け付けております)

第2次参加締め切りは 6月末日になります。
(書類到着後 参加者 選考の末 後日 通知いたします)

お申し込みお問い合わせ:
被災者支援ネットワークむすびば十勝
TEL090-6211-3984 (時田)
mail: musubiba.tokachi@gmail.com
北海道帯広市桜木町東2線83-13

(スタッフの想い)
川を探検したり 森で遊んだり その子のペースで深呼吸するのはもちろんのこと
1番大切な食事を 心を込めてお出しします。
十勝でとれた新鮮な お野菜や お肉 果実 小麦…
なるべく 旬の食材を 地元のお母さんたちの手で作るから
『あなたたちは大事だよ』の 見えないコトバが伝わります。
「むすびば十勝」には現在、お父さんお母さんの世代からおじいちゃんおばあちゃんの世代まで幅広い優しい心が、あつまっています。
初めての方もどうぞお気軽にご参加ください.

一人ひとりの力は弱くても、多くの人が集まれば大きな力になることを信じて。

2016/06/27

福島第一のセシウム、コンクリと反応か 九大など研究/東京

2016年6月27日 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ6V35H4J6VULBJ001.html

東京電力福島第一原発事故の発生から4日後に東京都へ降下した放射性セシウムの大半が、ガラス状の微粒子に取り込まれた状態になっていたことが九州大など日米仏の国際チームの研究でわかった。溶け落ちた核燃料が高温で格納容器の底のコンクリートと反応してできたとみられる。今もよくわかっていない炉心溶融した原子炉内の状況を知る手がかりになりそうだ。

27日、横浜市で開かれる地球化学の国際会議で発表される。

九大の宇都宮聡准教授(環境ナノ物質化学)らは、事故発生4日後の2011年3月15日に都内でフィルターによって採取された放射性降下物を電子顕微鏡などで詳細に分析した。セシウムの80~89%はガラス状微粒子に取り込まれ、微粒子に含まれないものはほとんどなかった。大きさは1マイクロメートル未満で、放射性物質の濃度は1グラムあたり4400億ベクレルだった。

2200度以上になった溶融燃料と触れたコンクリート由来のケイ素などが、熱せられた後に冷えてガラス状になったとみられる。格納容器底部まで落ちたことが裏付けられ、廃炉作業の前提となる溶融燃料の位置を知るのに役立つと期待される。宇都宮さんは「微粒子がどう拡散したかの調査も必要だ」と話した。(杉本崇)



セシウムの89%はガラス粒子 原発事故で東京への降下物分析

2016年6月27日 中日新聞

東京電力福島第1原発事故の発生から4日後に東京に降下した放射性セシウムの89%は、ガラス状の微粒子に溶け込んだ状態だったとの研究結果を、九州大の宇都宮聡准教授らが27日までにまとめた。

セシウムは雨などで洗い流されると考えられていたが、直接的に除去する方法でなければ環境に存在し続ける可能性があるという。チームは「健康への影響について考え直す必要がある」としている。

チームは、事故発生後の2011年3月15日、原発から約230キロ離れた東京都内で採取された放射性降下物を分析した。
(共同)

[福島日報ダイジェスト] 「宮城県のタケノコから226ベクレル」全国食品ダイジェスト6月8日 

(フクシマン・マサさんメルマガより転載させていただきます。http://ameblo.jp/masa219koro/ からメルマガ登録できます。子ども全国ネット)

6月8日に厚生労働省より発表された「食品中の放射性物質の検査結果について(第984報)」によりますと福島県を除く40の都府県・市区などの各自治体から入手した放射性セシウムの検出検査結果5,840件のうち、国の定めた基準値100Bq/kgを超える数値が検出された検体は、次の6件でした。

宮城県丸森町産の野生のタケノコ47件中の6件から120.3Bq/kg~226.9Bq/kg

以上、厚生労働省発表「食品中の放射性物質の検査結果について(第984報)」の要約でした。

詳しくお知りになりたい方は、福島県のHPより「ふくしま新発売」、厚生労働省 および、 郡山市のHPより「食品中の放射性物質の検査結果について」をご覧ください。

汚染土、二重基準隠し 再利用へ「理論武装」 環境省非公開会合

2016年6月27日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160627/ddm/041/040/165000c

「ダブルスタンダード(二重基準)としか読めない」。東京電力福島第1原発事故に伴う除染で出た汚染土の再利用を巡り、管理期間を170年と試算しながらその可否について判断を先送りした環境省の非公開会合は、法令が定める二つの基準の整合性が議論の中心となった。議論を取り仕切る委員長からは「この会合はその(二重基準と言われない)準備のための理論武装と考えている」との発言も飛び出した。【日野行介】

原子炉等規制法は原発解体で生じる金属などの「安全に再利用できる基準」(クリアランスレベル)を放射性セシウム1キロ当たり100ベクレル以下と規定。一方、原発事故後に成立した放射性物質汚染対処特別措置法は8000ベクレル超を指定廃棄物とし、同ベクレル以下を「問題なく廃棄処理できる基準」と定めている。

「再利用のためには濃度基準は必要で、そのための目安は8000ベクレル。ただ、当面の考え方(クリアランスレベル)と整合を取っていて100ベクレルという努力目標がある。100ベクレルが義務ならダブルスタンダードになる」。2月24日に開かれた4回目の非公開会合で事務局役の日本原子力研究開発機構(JAEA)の担当者が説明した。議論をまとめた文書に対し、ある委員は「まだダブルスタンダードのように読める」と指摘。別のJAEA担当者が「(汚染土をコンクリートなどで覆う)管理の仕方とセットにすればダブルスタンダードではないと考える」とフォローした。

委員長の佐藤努北海道大学教授は「この会合はその準備のための理論武装と考えている」と発言。後の取材で「二重基準だと言われないためという趣旨か」と問うと、「はい、そうです」と認めた。

二重基準と指摘される恐れがありながら、環境省が非公開会合での議論を進めたのは、再利用の上限値を緩めなければ、最大で東京ドーム18個分とされる汚染土の最終処分量を減らせないためだ。汚染土は植物など異物を除去後、セシウムが小さい粒に付着しやすい特性を利用して、ふるい分けで濃度が低い大きい粒を集めて再利用される。これなら8000ベクレルで75%、3000ベクレルでも62%の再利用が可能だが、100ベクレルではほとんど再利用できないとの試算も非公開会合で示された。

非公開会合の上部組織「中間貯蔵除去土壌等の減容・再生利用技術開発戦略検討会」は昨年7月、環境省が土木や放射線の専門家ら11人を委員に設置。要綱で「ワーキンググループ(WG)を置くことができる」とし、「土木学会再生利用WG」などが設けられ、メンバーや議事録が公開されている。しかし、二重基準を議論した非公開会合「放射線影響安全性評価検討WG」は、当初その存在すら公表されなかった。

今年4月13日の参院東日本大震災復興・原子力問題特別委員会で丸川珠代環境相はようやく存在を認めたが、議事録などは「公にすれば誤解や混乱を生む可能性がある」と公開を拒否。2月16日の非公開会合で佐藤委員長は「親委員会である戦略検討会へのWGの結論の出し方も考えなくてはならない」と発言、環境省の担当者も「検討会は公開の議論なので出し方に注意が必要」と応じ、保秘の姿勢を強く示していた。

汚染土「管理に170年」 安全判断先送り 再利用方針 環境省非公開会合

2016年6月27日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160627/ddm/001/040/188000c

東京電力福島第1原発事故に伴う除染で出た汚染土を巡り、環境省の検討会が再利用の方針を決めた際、法定の安全基準まで放射能濃度が減るのに170年かかるとの試算を非公開会合で示されながら、長期管理の可否判断を先送りしていたことが分かった。環境省は汚染土を道路の盛り土などに再利用し、コンクリートで覆うことなどで放射線を遮蔽(しゃへい)するとしているが、非公開会合では盛り土の耐用年数を70年と提示。道路の供用終了後も100年間の管理が必要で、専門家は「隔離もせずに計170年もの管理をできるはずがない」と厳しく批判している。

福島第1原発=福島県大熊町で2016年2月、本社ヘリから梅村直承撮影

この非公開会合は「放射線影響安全性評価検討ワーキンググループ(WG)」。汚染土の減容や再利用を図るため環境省が設置した「中間貯蔵除去土壌等の減容・再生利用技術開発戦略検討会」の下部組織で、メンバーは一部重なる。

毎日新聞が入手したWGの内部資料によると、1〜5月に6回開かれ、放射線の専門家ら委員8人と環境省や日本原子力研究開発機構(JAEA)の担当者ら計20人余が出席した。原子炉等規制法は原発解体で生じる金属などの「安全に再利用できる基準」(クリアランスレベル)を放射性セシウム1キロ当たり100ベクレル以下と定める一方、事故後成立した放射性物質汚染対処特別措置法は8000ベクレル超を指定廃棄物とし、同ベクレル以下を「問題なく廃棄処理できる基準」と規定。WGはこの8000ベクレルを汚染土再利用の上限値とするための「理論武装」(WG委員長の佐藤努北海道大教授)の場となった。

環境省は汚染土をコンクリートで覆うことなどで「放射線量はクリアランスレベルと同程度に抑えられる」として道路の盛り土や防潮堤など公共工事に再利用する計画を発案。1月27日の第2回WG会合で、委員から「問題は(道路などの)供用後。自由に掘り返していいとなると(再利用の上限は)厳しい値になる」との指摘が出た。JAEAの担当者は「例えば5000ベクレル(の汚染土)を再利用すれば100ベクレルまで減衰するのに170年。盛り土の耐用年数は70年という指標があり、供用中と供用後で170年管理することになる」との試算を提示した。

その後、管理期間を巡る議論は深まらないまま、上部組織の戦略検討会は8000ベクレルを上限として、コンクリートで覆う場合は6000ベクレル以下、植栽した盛り土の場合は5000ベクレル以下など用途ごとに目安を示して再利用を今月7日に了承した。

環境省は年内にも福島県内の仮置き場で濃度の異なる汚染土を使って盛り土を作り、線量を測る実証実験を始めるとしている。

戦略検討会の委員を兼ねるWGの佐藤委員長は管理期間170年の試算を認めた上で、「議論はしたが何も決まっていない。今回は再利用の入り口の考え方を示したもので、(170年の管理が)現実的かどうかは今後検討する」とした。

環境省除染・中間貯蔵企画調整チーム長だった小野洋氏(6月17日異動)は、「最後どうするかまでは詰め切れていないが、そこは環境省が責任を持つ」と述べた。同じ検討会の下に設置され土木学会を中心とした別のWGでは汚染土再利用について「トレーサビリティー(最終段階まで追跡可能な状態)の確保は決して容易ではない」との見解が示されている。【日野行介】

◇捨てているだけ…熊本一規・明治学院大教授(環境政策)の話
汚染管理は、一般人を立ち入らせないことや汚染物が埋まっていることを知らせるなどの要件を満たすことが必要だ。道路など公共物に使いながら170年間も管理するのはあまりに非現実的。70年の耐用年数とも矛盾する。このような措置は管理に当たらないし、責任を取らないと言っているに等しい。実態としては捨てているだけだ。

■ことば  除染による汚染土
住宅地などの地表面をはぎ取った汚染土はフレコンバッグなどに入れ現場の地下に埋設保管されているほか、自治体などが設置した仮置き場で集積保管されている。推計で最大2200万立方メートル(東京ドーム18個分)とされる福島県内分は双葉、大熊両町に整備中の中間貯蔵施設で最長30年間保管後、県外で最終処分する方針だが、処分先などは未定。福島県外では栃木、千葉など7県で計約31・5万立方メートルが昨年9月末時点で保管されているが、今後の取り扱いは決まっていない。

<この人このまち>地産地消 丸森を元気に/宮城

2016年6月27日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160627_13037.html

東京電力福島第1原発事故の風評被害に悩む宮城県丸森町の大張地区に、カフェ「つぶっこ」が開店してから7月で3年を迎える。主婦だった佐藤真紀さん(52)が一念発起して起業した。復興と地産地消を目指し「地域を元気づけたい」と張り切る。
(角田支局・会田正宣)

◎カフェ「つぶっこ」店長・佐藤真紀さん(52)



 -起業のきっかけは。
「会社勤めの夫(55)が定年になったら夫の実家の丸森に戻り、サロンを開こうと考えていました。東日本大震災で1人暮らしの義父を放っておけなくなり、Uターンが早まりました」

「やるなら町のためにやりたいと思いました。原発事故後も、ここで暮らさなければならない人を元気にしたい。おしゃれなカフェで楽しんでもらおうと、自宅を改装し開店しました」

-地産地消をコンセプトにしています。
「大張地区が六穀米栽培に力を入れた直後に事故が起き、販売が難しくなりました。その六穀米を活用するため、お膳やシフォンケーキをメニュー化しました。養蚕が盛んだった地域なので、桑の実ソーダ水も提供しています。地元の食物をいただく身土不二の考えを大切にしており、心も体も喜んでほしいです」

-いわき市のNPOが手掛ける被災者支援事業「オーガニックコットンプロジェクト」に開店当初から参加していますね。
「プロジェクトの方が、起業セミナーの講師を務めていたのが縁でした。同じ放射能問題に悩む福島に協力したかったのです」

「町内の遊休農地10アールに、毎年ボランティアを募って会津産の和綿の種を植え、収穫した綿をいわきに送っています。各地からの綿で、仮設住宅に住む女性が女の子の赤ちゃんの人形『コットンベイブ』を作っています。今年3月に綿を送ると丸森産だけで人形を作ってくれました。小さな支援が実り、うれしかった」

-3年の手応えと今後の抱負は。
「生産者と消費者の触れ合いを大切にしようと毎年、庭先で『つぶっこ市』を開いてきました。今年は7月30日、斎理屋敷向かいの物産館『八雄館』で行います。ようやく地域になじめてきた感じです」

「5年に向けてセラピーを学び、心のケアのプログラムづくりを進めています。地域に温かい気持ちが広がる場でありたい。ささやかな積み重ねが町の再生につながればと思います」(月曜日掲載)

[さとう・まき] 63年横浜市生まれ。福島成蹊高卒。4人の子育てを終え、13年7月に体験交流型カフェ「つぶっこ」を開店。

2016/06/26

原発事故問題、終わってはいない 新潟・福島第1・告訴団長が講演

2016年6月26日 新潟日報
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20160626263437.html

原子力災害をテーマにした講演会が25日、新潟市中央区の万代市民会館で開かれた。東京電力福島第1原発事故を防げなかった東電元幹部の刑事責任を追及する「福島原発告訴団」団長の武藤類子さん(62)=福島県三春町=が「原発事故は終わらない」と題し、難航する汚染水対策など、福島が背負う課題を訴えた。

原発問題を考える市民団体が主催し、約110人が参加した。

福島第1原発事故によって生じた問題を語る武藤類子さん
=25日、新潟市中央区

武藤さんは、第1原発の廃炉作業の中で汚染水が障害になっていると指摘。「東電は事故から間もないころ、粘土の遮水壁を計画していたが、債務超過による株価暴落などを懸念し、見送った。その後の対策も十分な効果が出ておらず、汚染水の問題は深刻化するばかりだ」と批判した。

県内各地の仮置き場に除染廃棄物が増え続けている現状など、被災者の生活再建に向けた課題も説明した。「避難で家族はばらばら。なりわいも奪われる。それが原発事故だ。放射能がなくならない限り、問題は終わらない」と語った。

会場の参加者からは「原子力という技術を国全体が求め、容認してきた部分があると思う。それが自分たちに跳ね返ってきたのが福島の事故だった」といった意見が上がった。

[福島日報ダイジェスト] 「栃木県のイノシシから202ベクレル」全国ダイジェスト5月31日

(フクシマン・マサさんメルマガより転載させていただきます。http://ameblo.jp/masa219koro/ からメルマガ登録できます。子ども全国ネット)

5月31日に厚生労働省より発表された「食品中の放射性物質の検査結果について(第983報)」によりますと福島県を除く33の都府県・市などの各自治体から入手した放射性セシウムの検出検査結果4,517件のうち、

国の定めた基準値100Bq/kgを超える数値が検出された検体は、6件でした。
また福島県の検査結果によりますと823検体のうち基準値を超えたものは2件でした。
合わせて8件の、産地、品目、数値は次の通りです。

栃木県那珂町産の野生のイノシシ肉23件中の5件から 124.7Bq/kg~202.4Bq/kg
群馬県前橋市産の野生のニホンジカ肉4件中の2件から 117.5Bq/kg、134.1Bq/kg
福島県鮫川村産の野生のタラノメ20件中の1件から 182.9Bq/kg
福島県鮫川村産の野生のコゴミ5件中の1件から 173.2Bq/kg

以上、厚生労働省発表「食品中の放射性物質の検査結果について(第983報)」の要約でした。

詳しくお知りになりたい方は、福島県のHPより「ふくしま新発売」、厚生労働省および、郡山市のHPより「食品中の放射性物質の検査結果について」をご覧ください。

[福島日報ダイジェスト] 福島食品モニタリングダイジェスト6月7日

(フクシマン・マサさんメルマガより転載させていただきます。http://ameblo.jp/masa219koro/ からメルマガ登録できます。子ども全国ネット)

6月7日に福島県より発表された「農林水産物緊急時モニタリング検査結果」によりますと、郡山市、浅川町、泉崎村等で 農産物、および畜産物など29検体について、 放射性セシウムの検出検査が行われました。
その結果、国の定めた基準値100Bq/kgを超える数値が検出された検体はありませんでした。
測定下限値を超える数値が検出された検体は、全体の約10%を占める3件でした。その品目と数値は次の通りです。

郡山市産の施設栽培の原木シイタケ1件から 10.7Bq/kg
西郷村産の野生のフキ1件から 7.58Bq/kg
国見町産の野生のタケノコ1件から 6.14Bq/kg

以上、福島県発表「農林水産物緊急時モニタリング検査結果」を ダイジェストにしてお伝えしました。

詳しくお知りになりたい方は、福島県のHPより「ふくしま新発売」、厚生労働省および、郡山市のHPより「食品中の放射性物質の検査結果について」をご覧ください。

なお、この情報は、フェイスブック上からも確認できます。カタカナで「フクシマンマサ」(福祉Manマサ)と検索して下さい。

静岡/参院選 原発問題なぜ語られぬ

2016年6月26日 中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20160626/CK2016062602000097.html

◆市民団体 静岡市に避難計画を
参院選で「原発」を巡る論争が盛り上がらない。中部電力浜岡原発(御前崎市)がある静岡選挙区では重要な課題の一つだが、与党候補も最大野党の候補も公示日の第一声で言及しなかった。静岡市に原発事故時の広域避難計画策定を求めている市民団体「静岡市・子ども被災者支援法を考える会」代表の小笠原学さん(41)=静岡市葵区=は「福島が忘れられている」と危機感を抱く。

公示前日の二十一日。小笠原さんは静岡市議会の栗田裕之議長に面会し、広域避難計画の策定と安定ヨウ素剤の事前配布を求める陳情書を提出した。県内外から集めた百五十三人の署名や、参加者の九割が「静岡市にも避難計画は必要」と答えた街頭アンケート結果も提示。「多くの市民が原子力防災を求めている」と伝え、栗田議長は「検討する」と受け取った。

静岡市の広域避難計画策定を求める陳情書を
栗田裕之議長(右)に手渡す小笠原学さん(中)=静岡市役所で
静岡市は、浜岡原発から三十五キロ以上離れており、県が定めた緊急防護措置区域(UPZ)三十一キロの圏外だ。国は同市に原子力災害対策を義務付けておらず、県の広域避難計画でもUPZ圏内の避難者の受け入れ先とされている。同市の地域防災計画にも、原子力災害時に静岡市民が被ばくを避ける手だては記されていない。

しかし、小笠原さんは「福島の教訓を考えれば、静岡市にも放射性物質が降り注ぐ可能性がある」と話す。福島第一原発から四十キロ余離れた福島県飯舘村は、現在も全村避難状態にある。

小笠原さんは二〇一一年四月から毎月、福島県の保育所などに静岡の有機野菜を送る活動を続けてきた。被災者と交流する中で、避難指示区域の内外で補償や支援に格差があり、地域が分断された苦難を知った。

「福島の苦しみを静岡で繰り返してはならない。避難の権利を守りたい」。強い思いで、UPZ圏外にも避難計画が必要と訴える陳情書を市議会に出した。

UPZ圏外に防護対策を求める動きは静岡市だけではない。三島市や沼津市などの市民は「広域避難を考える県東部有志実行委員会」を立ち上げ、県原子力安全対策課にUPZ圏外も含めた広域避難計画を求めてきた。関西電力高浜原発(福井県)から四十五キロ以上離れた兵庫県篠山市は、市民委員会の提言を受け、昨年度から安定ヨウ素剤を希望者に事前配布。広域避難計画に代わるガイドブックの作成も検討している。

こうした動きと対照的に、四月にあった御前崎市長選では原発再稼働は争点にならなかった。参院選でも安倍晋三首相は「消費増税先送りの信を問う選挙」と位置付ける。選挙戦に入り、反原発を掲げる党を除き、原発問題を取り上げる演説はあまり聞こえてこない。小笠原さんは「静岡県にとっては浜岡再稼働が問われた選挙。若い人にも一票の重さを感じてほしい」と訴える。

陳情書は二十七日の市議会運営委員会で取り扱いを協議され、審議対象と判断されれば、七月六日の総務委員会で審査される。
(松野穂波)

<広域避難計画> 原子力災害発生時に住民の被ばくを防ぐため、避難先や移動手段を細かく定めた計画。国は、原発からおおむね半径30キロを目安に県が定める緊急防護措置区域(UPZ)圏内の自治体に計画の策定を求めている。静岡県は浜岡原発から31キロ圏内11市町を対象にした計画を3月末に公表した。

栃木/指定廃棄物「1カ所集約」反対を 解除後は国が責任 県内10団体が知事に要望

2016年6月26日 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201606/CK2016062602000152.html

高濃度の放射性物質を含む「指定廃棄物」をめぐり、県内の複数の住民団体が福田富一知事に対し、国が目指す県内一カ所の処分場建設に知事として反対し、指定が解除された廃棄物を処分する責任を国から市町に転嫁させないよう求める申し入れ書を提出した。

県環境森林部を通じて十五日付で文書を提出したのは、廃棄物問題の情報共有に取り組む「ゴミ問題を考える県連絡会」(下野市)を中心とした十団体。

申し入れ書は「地震国の日本で、将来にわたり放射性物質が漏れ出さない施設を造ることは困難だ」と問題提起。茨城県で指定廃棄物の分散保管の継続が認められたことや、宮城県で三カ所の処分場候補地が選定を「返上」したことにも触れ、「栃木県でも新たな方針転換が必要」と強調している。

放射性物質濃度が一キログラム当たり八〇〇〇ベクレル以下となった廃棄物の指定を解除できる仕組みを国が示したことについては、「通常の廃棄物と同様に処分するのではなく、保管を続け、将来的に東京電力の責任で処分するように求めてほしい」とした。県は七月上旬にも申し入れに回答する方針。

提出者には、足尾鉱毒事件と闘った田中正造について学ぶ活動を続ける「田中正造大学」(佐野市)や、県が那珂川町で計画している馬頭最終処分場の整備に反対する「那珂川町の自然と環境を守る会」なども名を連ねた。 (大野暢子)

2016/06/25

【報道まとめ】指定廃棄物 千葉市再測定

指定廃棄物、基準下回る 千葉市再測定 市長「処分場理解されぬ」

2016年6月25日 産経新聞
http://www.sankei.com/region/news/160625/rgn1606250047-n1.html

千葉市は24日、東京電力福島第1原発事故で発生した指定廃棄物の放射性セシウム濃度を再測定した結果、市が保管している7・7トン全てで指定基準を下回っていたと発表した。事故から5年以上が経過し、濃度が減衰したためとみられる。同市は県内の指定廃棄物の処分場候補地に選定されているが、受け入れ拒否の意向を示しており、「思惑通り」となった今回の再測定結果を、候補地返上の根拠として活用していく意向だ。

熊谷俊人市長は同日、報道陣の取材に対して「市内に指定廃棄物がないことが正式に確認された。市民感情の面で、処分場の受け入れに理解は得られないと改めて思った」と話した。

指定廃棄物は焼却灰と、汚水から放射性セシウムを吸着した鉱物「ゼオライト」に分かれている。市によると、複数カ所からサンプルを採取し、混ぜるなどして再測定を行った結果、濃度はそれぞれ1キロ当たり4020ベクレル、6100ベクレルとなり、基準の8千ベクレルをいずれも下回った。市は来週中をめどに、環境省に指定廃棄物の指定解除の申出書を提出するとしており、解除が実現すれば全国で初めてとなる。解除後も当面は、現状通り新港清掃工場(美浜区)で保管を続けるとしている。

環境省は県内の指定廃棄物の処分場候補地に東電千葉火力発電所(中央区)を選定している。同省によると、処分場候補地の選定に当たっては、保管している指定廃棄物の量も評価のポイントになっていると説明していた。

一方で同省は本紙の24日の取材に対し、「濃度は減衰するもの。千葉県の場合、平成26年4月時点を基準としている」として、処分場を千葉市に設置する姿勢を崩していないことを明らかにした。



保管の指定廃棄物、再測定で基準下回る…千葉市

2016年06月25日  読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/eco/20160625-OYT1T50021.html

東京電力福島第一原子力発電所の事故で発生した指定廃棄物の指定解除に向け、千葉市美浜区の新港清掃工場にある指定廃棄物の再測定の結果、放射性物質濃度が基準を下回っていることが判明した。
千葉市が24日、発表した。

市はこの結果を受け、来週にも指定取り消しの申出書を環境省に提出する。同省は書類審査を経て解除する見通し。同省などによると、指定取り消しの申し出は全国初になるとみられる。

市廃棄物施設課によると、同工場で20日、保管中の指定廃棄物からサンプルを採取し、22日に調べた。サンプルとなったのは、セシウムを含む水の安全性を確保するために使用した吸着材(ゼオライト)と焼却灰。吸着材は1キロ・グラム当たり6100ベクレル(指定時8490ベクレル)、焼却灰は同4020ベクレル(指定時9320ベクレル)だった。いずれも同8000ベクレル以下で、指定廃棄物の基準を下回っていた。同工場では指定廃棄物7・7トンが保管されている。

熊谷俊人市長は「8000ベクレルを下回っていたことを確認できたことは一つの前進。(指定解除後も)風評被害防止のため、清掃工場内で引き続き保管したい」と述べた。市は解除後の廃棄物を、少なくとも年内は同工場内で保管する予定。



指定廃棄物解除、千葉市が申請へ 放射性物質の濃度再測定 

2016年06月25日
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H6Q_U6A620C1CR8000/

千葉市は24日、市内で保管している放射性物質を含む指定廃棄物の濃度を再測定した結果、環境省が1キログラム当たり8千ベクレル超と定めた基準値を下回ったと発表した。市は来週中にも同省に指定の解除を申請する。指定廃棄物を保管する12都県の自治体のうち、初の申請となる見通しだ。

環境省は4月、経年によって放射性物質の濃度が1キログラム当たり8千ベクレル以下になれば通常の廃棄物と同様に処分できるとする省令を施行。千葉市は今月20日、市内にある7.7トンの指定廃棄物を再測定していた。

同省は千葉県内の指定廃棄物の処分場建設候補地として千葉市の東京電力千葉火力発電所を選んでいる。だが千葉市の熊谷俊人市長は「指定廃棄物はなくなった」として建設に向けた調査を拒否する姿勢を示している。



指定廃棄物 濃度、基準下回る 千葉市、環境省に解除申請へ

2016年6月25日 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201606/CK2016062502000155.html 

東京電力福島第一原発事故で発生した指定廃棄物について、千葉市は二十四日、保管する七・七トンから採取した試料を再測定した結果、放射性物質濃度が一キログラム当たり八〇〇〇ベクレル超の指定基準を下回ったと発表した。市は来週にも環境省に指定解除を申請する。

市の保管分は焼却灰四・二トンと、汚水のろ過に使った吸着剤のゼオライト三・五トンで、それぞれ指定から数年が経過。再測定では、指定当時九三二〇ベクレルだった焼却灰は四〇二〇ベクレル、八四九〇ベクレルだったゼオライトは六一〇〇ベクレルという結果が出た。市は省が四月に解除ルールを定めて以降、ほかの自治体に先駆けて準備を進めていた。解除された場合、通常のごみと同様の処分ができるようになるが、市は当面、市内の清掃工場での保管を続けるとしている。 (内田淳二)




千葉市の指定廃棄物、放射性物質の濃度が基準以下に

2016年6月24日 TBSNews i
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2805649.html

福島第一原発の事故で発生した放射性物質を含む「指定廃棄物」について、千葉市は放射性物質の濃度が基準を下回ったとする測定結果を発表しました。

福島第一原発の事故で発生した放射性物質に汚染された廃棄物のうち、1キログラム当たり、8000ベクレルを超えるものは「指定廃棄物」とされ、千葉市では、美浜区の清掃工場で7トンあまりが保管されています。

放射性物質の濃度が時間の経過に伴い低下することを踏まえ、千葉市が今月22日、濃度の再測定を行った結果、8000ベクレルを下回り、一般の廃棄物として処分できることになったということです。

「予想通り8000ベクレルを下回ったことを確認できたのは前進だと思っている。これから指定廃棄物の解除に向けて必要な手続きを取りたい」(千葉市 熊谷俊人 市長)

千葉市は、来週にも環境省に指定の解除を申し出る方針で、解除された場合、処分方法などを検討することにしています。





原発事故の指定廃棄物 千葉市が指定解除を申請へ

2016年6月24日 NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160624/k10010570461000.html

原発事故で発生した放射性物質を含む指定廃棄物について、千葉市が放射性物質の濃度を再び測定した結果、国の基準を下回っていることが確認できたとして、来週中にも全国で初めて環境省に指定解除を求める申請を行うことになりました。

自治体などで保管されている指定廃棄物について、環境省は、放射性物質の濃度は時間の経過とともに下がるため、基準を下回れば指定を解除して一般の廃棄物として処分できるようにしました。

これを受けて、千葉市が、美浜区の清掃工場で保管している7トン余りの廃棄物を再び測定した結果、1キロ当たりの放射性物質の濃度は、4000ベクレルから6100ベクレルで、国の基準の8000ベクレルを下回っていることが確認できたということです。

このため千葉市は環境省に対し、来週中にも指定廃棄物の指定解除を求める申請を行うことを決めました。環境省によりますと、申請が行われれば全国で初めてとなります。

千葉市は指定が解除された場合も、廃棄物を直ちには処分せず、当分の間、清掃工場で保管を続けるとしています。

一方千葉市は、千葉県内の指定廃棄物の処分場の候補地となっていますが、熊谷俊人市長は「指定廃棄物が全く存在しないと確認できたのに処分場を受け入れることは市民の理解を得られないだろう」と述べ、受け入れを拒否する姿勢を改めて示しました。


千葉市、取り消し申請へ 指定廃棄物、基準を下回り /千葉

2016年6月25日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160625/ddl/k12/040/154000c 

千葉市は24日、市内に保管する東京電力福島第1原発事故で発生した指定廃棄物の放射性セシウム濃度が、一般廃棄物として処理できる1キロ当たり8000ベクレルを下回ったとする測定結果を発表した。市は来週にも環境省に指定取り消しを求める申請書を提出する。

市は同市美浜区の新港清掃工場で、指定廃棄物のゼオライト3・5トンと焼却灰4・2トンを保管。測定の結果、ゼオライトが1キロ当たり6100ベクレル(2014年3月18日時点で同8490ベクレル)、焼却灰が同4020ベクレル(11年7月25日時点で同9320ベクレル)となり、共に基準を下回った。風評被害が広がる恐れもあり、引き続き同工場で保管する。

一方、市が県内の指定廃棄物処分場建設の候補地になっていることについて、熊谷俊人市長は「市に指定廃棄物が全くないことが正式確認できたのは一つ前進だ。受け入れについては市民の理解は得られないと改めて思う」との見解を示した。

環境省は4月、指定廃棄物の放射性セシウム濃度が1キロ当たり8000ベクレル以下の場合、一般ごみと同様に処分することを認める新ルールを発表。指定解除に向け、市の委託業者が20日にサンプルを採取し、濃度を測定した。【田ノ上達也】

<汚染稲わら>環境省がサンプル採取/宮城

2016年6月25日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160625_13018.html

環境省は24日、東京電力福島第1原発事故で発生した未指定廃棄物の汚染稲わらを調査するため、大崎市内の保管庫でサンプル採取を行った。調査には伊藤康志市長が立ち会った。

調査の対象となった保管庫には2013年3月から約31トンが積まれたままになっている。担当者が庫内の10カ所から60~110グラムずつサンプルを抜き取り、袋詰めにした。東京の調査機関で放射能濃度などを調べる。

大崎市内には46カ所の保管場所があり、計733トンの汚染稲わらが一時保管されている。全量が未指定廃棄物で、環境省は「保管開始時点のデータがなく、放射能濃度の減衰を調べることはできない」と話す。

伊藤市長は「汚染物質の近くで暮らす住民の不安を早急に取り除くことが必要。市が焼却などの処理をするのは不可能で、国が実態に即した解決策を打ち出すよう望む」と語った。

県内では大崎市をはじめ14市町が未指定の農林系汚染廃棄物を保管し、国に調査を要望した。環境省は4月以降、栗原市を皮切りに12市町でサンプル採取を終え、残る白石市と丸森町でも8月までに実施。9月中をめどに調査結果をまとめ、処理方法に反映させる。

2016/06/24

ベント成功なら「汚染軽度」=福島事故で見解-学術会議

2016年6月24日 時事通信
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016062401010&g=eqa

東京電力福島第1原発事故を調査していた日本学術会議の小委員会は24日、事故対応についての見解を明らかにした。2号機格納容器内の圧力を下げるため外部に気体を放出する「ベント」が、準備不足などで困難を極めたと指摘。早期に成功すれば「放射性物質の放出を抑制でき、汚染も軽度で済んだ可能性がある」とした。

小委員会は「原子力関係者全員の慢心と想像力が欠如していた」と批判。ベントによる減圧と消防車を使った注水が早期にできていれば、「燃料溶融は避けられた可能性がある」との見解を示した。

「慢心と想像力の欠如」 日本学術会議が原発事故を批判


2016年6月24日 NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160624/k10010569251000.html

東京電力福島第一原子力発電所の事故を検証してきた日本学術会議の委員会は、ベントという操作が難航し、事故の悪化を食い止められなかったとしたうえで、設計上の課題などの背景に「慢心と想像力の欠如」があると指摘する内容の検証結果を24日にもまとめることが分かりました。



ベントは、原発事故が起きた際、放射性物質を封じ込める格納容器と呼ばれる設備が破損するのを防ぐため、放射性物質を含む水蒸気を放出して内部の圧力を下げる操作です。

しかし、福島第一原発の事故では操作が難航し、1号機と3号機では、ベントが実施できたときにはすでに核燃料が溶け落ちていたほか、2号機ではベントができず、最終的に放射性物質の大量放出に至りました。

この問題について、国内の科学者でつくる日本学術会議の委員会が独自の検証結果を24日にもまとめることが分かりました。この中では、アメリカでは事故の悪化を防ぐため早い段階でベントを行うとしているのに対し、日本では圧力が一定以上に達するまでベントを行わないという考え方の違いを指摘しています。その背景として、「放射性物質の大量放出に至るような事故はありえない」という「原子力関係者全員の慢心と想像力の欠如」があり、ベントの設備が「多くの設計上の課題を抱えていた」としています。そのうえで、「真摯(しんし)に対応していれば、放射性物質による汚染も軽度で済んだ可能性がある」と指摘する方針です。

この委員会では、福島第一原発の津波対策の問題点についても検証を進め、今年度中にも結果をまとめたいとしています。


映画『セシウムと少女』東京・阿佐ヶ谷にて凱旋ロードショーが決定

2016年6月24日 CINEMA TOPICS ONLINE

昨年4月に公開されました映画「セシウムと少女」、国内ではじわじわと本当にゆっくりと評判を得つつ全国各地で上映を続けて参りましたが、2016年年始より海外映画祭からの問い合わせが相次ぎ、いま現在、25の映画祭で招待上映・20のノミネート、そして10の賞を授かるという初監督作品としては異例の快挙(?)を成し遂げました。

それを受けて、このたびこの映画の舞台ともなった東京・阿佐ヶ谷にて凱旋ロードショーが決定いたしました!


主な受賞歴
「インターナショナル フィルムメーカー フェスティバル オブ ワールド シネマ ロンドン」ベストアニメーション・アニメシークエンス賞
「カーディフ インディペンデントフィルムフェスティバル」ベスト脚本賞
「アコーレイド・グローバルコンペティション」審査員賞
「シネマ オン ベイヨー フィルム フェスティバル」審査員特別賞
「ウィンターフィルム アワード」ベストオリジナル作曲賞
「12 マンス・フィルム フェスティバル」11月期プロデューサー賞
「ソーカルフィルムフェスティバル」ベスト映画祭賞、ベスト長編作品賞、ベスト監督賞
「インターナショナル ムービー アワード」ゴールドアワード 音楽監督、アワーズオブメリット 撮影監督

●映画「セシウムと少女」凱旋ロードショー! ユジク阿佐ヶ谷6・18~7・29
ロンドン・ニューヨーク・ベネチア・ニース・トロントetcそして広島!
世界各地を巡る長い旅から、ミミちゃんとくたびれた神様たちが東京に帰ってきた!

映画「セシウムと少女」
6月18日~7月29日まで。連日AM10:30~モーニングショー
※7月9日、10日のみ夜20:50~ 舞台挨拶アリ。主演:白波瀬海来 他

チケット 一般:1,300円/ シニア・学生:1,100円/ 会員1,000円

お問合せ:ユジク阿佐ヶ谷 TEL:03-5327-3725
東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-19
https://yujiku.wordpress.com/


秋には準備宿泊開始、政府が意向 東京で福島県浪江の住民懇談会

2016年06月24日  福島民友
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20160624-086671.php

東京電力福島第1原発事故による全町避難から来年3月の帰町開始を目指す浪江町の住民懇談会が23日、スタートした。出席した政府の担当者は、特例宿泊を8月中旬、避難指示の解除を判断するための準備宿泊を秋から始めたい考えを示した。また、解除時期を年明けまでに示したい意向も表明した。

初回は東京・永田町で、県外避難を余儀なくされている住民らを対象に開催。馬場有町長は「避難指示解除に向け有識者検証委員会に16項目の課題を挙げてもらった。課題に対する町の取り組みをまとめた。自立できる生活支援に向け意見をいただきたい」とあいさつした。町や政府の関係省庁の担当者が除染の現状などについて報告した。

避難を余儀なくされている住民から意見を聞いた懇談会

住民との意見交換では、町が避難指示解除に向け計画している特例宿泊を巡り、「他の地域では自宅に宿泊して帰還の準備ができたかもしれないが、浪江町は雨漏りやネズミで家が傷み宿泊はできない」などの意見が出た。

また、住民からは「避難については謝罪されたが、放射能に被ばくしたことについては何の謝罪もない」「知人が放射能についのすみかを奪われたことを悲しみ『安全安心なお墓に避難します』と自殺した。政府のコメントを求めたい」などと、放射線への不安や政府の対応についての疑問も数多く出された。

懇談会は、町が復興計画で来年3月を目標としている「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の避難指示解除に向け、町民の意見を聞くことが目的で、7月5日まで県内外で開催する。

2016/06/23

保養に地域の支援を 寄付金など募る 篠山市民有志ら/兵庫

2016年06月23日 丹波新聞
http://tanba.jp/modules/news/index.php?page=article&storyid=2533

福島原発事故による放射能の健康被害を懸念しながら福島県などで暮らす親子を招き、8月8―12日、篠山市内で開催する保養キャンプ「笑顔つながるささやまステイ」の実行委員会が支援の寄付を呼びかけている。

キャンプには、福島県で生活する親子を招く予定。市内で川遊びや山登りなどを行い、自然の中で自由に遊べる場を提供する。昨年は6家族20人の親子が篠山でゆっくりとした時間を過ごした。

親子らの往復交通費や滞在中の移動費、食費などで100万円前後が必要となるため、支援金(1口3000円)や企業からの協賛金(1口1万円)などの協力を呼びかけている。

寄付金の受付口座は、郵便振替(00930―3―331578、加入者名・笑顔つながるささやまステイ)。問い合わせや協力の申し出は実行委員会の中村伸一郎さん(090・2065・7060)へ。

いわき放射能市民測定室たらちね より/日本初「民間の放射能測定室兼検診センター」開設を応援してください。

(福島県内で奮闘し続けている測定所があります。その中でも、いわき市にある「たらちね」は、女性スタッフが中心となり、市民に求められる生活に根ざした測定に、地道に取り組んできました。必要とされる測定であれば、一般には「困難」で「高額な費用がかかる」とされるβ線の測定などにも、道を開拓しながら取り組んできた実績があります。今後ますます必要とされるだろう、市民の側にたった子どもたちの検診。それを実現しようとする取組みです。 子ども全国ネット)

日本初「民間の放射能測定室兼検診センター」開設を応援してください。

https://www.actbeyondtrust.org/campaign/pledge/tarachine/jp/

福島で子育てをするママたちの不安を安心に変えるために、「たらちね検診センター」開設プロジェクトの応援メンバーになってください。

ご存知でしょうか?福島のママたちの2人に1人は県内での「子育てが不安」だと感じています(注1)。

私たちは、この不安を安心に変えるため、現在運営する市民による市民のための放射能測定室を拡張して、2017年4月の検診センター開所をめざしています。あなたの応援が、このプロジェクトの成功を支えます。

子育てに不安を抱えるママたちの声を聞いてください。

この動画は、福島県出身のビデオグラファー三本菅悠さんの協力で制作されました。




「外で遊びたい年頃の子が知らない虫やお花を見つけた時に、『触っちゃダメだよ』と言うのが一番辛かった」。あるママの言葉です。

放射能は目に見えず匂いもしません。だから不安になります。福島のママは、目に見えない不安に向き合いながら我が子を守ろうとしています。

不安を和らげるためにできること。それは、放射能を測って見えるようにすることです。親御さんからもらった野菜、掃除機のゴミ、幼稚園の砂場の砂、小学校の土・・・。NPO法人いわき放射能市民測定室たらちねでは、地元のママが持ち込む様々なものを測っています。

震災から5年が過ぎた今、不安を和らげるだけでなく安心に変えていくために、私たちにはやらなくてはいけないことがあります。それは、身の回りの放射能を測るだけでなく、身体に影響が出ていないか、心に影響が出ていないか、子どもたちのケアをすること。そのために、放射能測定室を拡張して、検診センターを開設します。

あなたの応援が、福島の子どもたちの命と未来を守ります。今すぐ、「たらちね検診センター」設立プロジェクトの応援メンバーになってください。




「たらちね検診センター開設プロジェクト」応援メンバーとは?

「たらちね検診センター」を成功させるには、全国の皆様からの応援が必要です。メンバーには、以下のお願いがあります(任意)。

・応援メンバー募集へのご協力:この応援メンバー参加フォーム送信後など、EメールやFacebookなどを通じて、本プロジェクトの拡散にご協力ください。

・オンラインアンケートへのご協力:市民による検診センターを、皆様との対話を通じてつくりあげていきたいと思います。準備の節目に予定しているアンケートであなたのお考えをお聞かせください。

会費は無料です。(よろしければ、ご寄付にご協力ください)上記のお願いも義務ではありませんので、お気軽にご参加ください。

たらちね検診センター計画について
【実施内容(計画)】
・健康相談
・甲状腺検診 (現在は不定期に実施)
・全身の放射能測定 (現在は不定期に実施)
・血液検査
・白内障検査
・交流スペース

【設置場所】NPO法人いわき放射能市民測定室たらちね事務所を拡張して設置

【開設までのスケジュール】
2016年6,7月 スペース拡張工事、電気設備工事、水道設備工事
〜2017年3月 医師/看護師の確保、検査体制の確立、血液検査設備など
2017年4月 検診センター開設
たらちね検診センター設立準備委員会について

このプロジェクトは、たらちね検診センター設立準備委員会によって、共同代表2名のもと運営されています。

[共同代表]
鈴木 薫
(NPO法人いわき放射能市民測定室たらちね事務局長)
星川 淳
(一般社団法人アクト・ビヨンド・トラスト代表理事)

いわき放射能市民測定室たらちねとアクト・ビヨンド・トラストは、β線測定のためのラボ設立など、以前から協力関係にあります。準備委員会では、いわき放射能市民測定室たらちねが検診センター開設を推進し、アクト・ビヨンド・トラストは準備委員会事務局、広報を担っています。


<参院選1票事始め>傍観者じゃ変わらぬ/福島

2016年06月23日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160623_61007.html

「18歳選挙権」が施行され、ティーンエージャーが初めて参院選で1票を投じる。閉塞(へいそく)感漂う政治に新しい風を吹き込むことができるのか。梅雨空の東北で新有権者の素顔に迫る。

◎福島の今 五七五で訴え
<あの頃までは>
<無被曝(ひばく)の水で被曝の墓洗う>

17音で古里が直面する現状を浮かび上がらせた。

福島市の福島西高3年の高橋洋平さん(18)は昨年8月、家族5人で福島県飯舘村に出掛けた。

東京電力福島第1原発事故の影響で全村避難を余儀なくされた飯舘村で生まれた。避難先の福島市から向かった先は、祖父らが眠る墓地だった。

「先祖の墓だけは澄んだ水で洗いたい」。コンビニで買った2リットル入りのペットボトルの水をおけに移し、ひしゃくですくった。墓石の上から透明な水をそっとかけた。仏花にもやった。

汗ばむ夏空の下、マスクを外し、鼻から思い切り空気を吸い込んだ。「やっぱりおいしい」。思わず漏らした言葉の余韻は、祖母フヨノさん(88)の「あの頃まではね」という一言で遮られた。

俳句で詠んだ墓参の様子を高橋さんに再現してもらった。
今も家族全員が避難生活を余儀なくされている=18日、福島県飯舘村飯樋

<放射線量200倍>
飯舘村は阿武隈高地の北部に位置し、農業と畜産が盛んな村として知られていた。面積の4分の3は森林。新鮮な空気、ほぼ完全自給の学校給食、イワナが泳ぐ川が自慢だった。

「あの日」を境に、自然に根差した村のなりわいは土台を失った。原発事故当時は飯樋小の6年。放射性セシウムなどの存在すら知らず、原発から約40キロ離れた自宅に家族ととどまった。

事故直後、近所の放射線量は毎時44.7マイクロシーベルトを記録した。国が後に除染目標に掲げる毎時0.23マイクロシーベルトの約200倍。全村避難の方針が伝えられたのは原発事故から1か月も後だった。

セシウム134、セシウム137。事故直後、プルームと呼ばれる放射性物質を大量に含んだ雲が上空を通過し、村に大量の放射性物質が降り注いだ、と後で聞かされた。

18歳以下の全県民を対象とする甲状腺検査では、友達よりも累積被ばく線量が高かった。「直後に雪を食べたせいかも…」。無口になり、心を閉ざした。

<最高賞に選出>
救ってくれたのは、世界で最も短い詩といわれる俳句だった。冒頭の句は神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀賞に選ばれた。

福島西高文芸部顧問の中村晋さん(49)が与えた三つのテーマから「福島」を選んだ。「見たまま、感じたままに」。恩師のアドバイスを反すうしながら、自室で静かに記憶をたどり言葉を紡いだ。

<被曝者として黙〓(もくとう)す原爆忌>
<フクシマに柿干す祖母をまた黙認>

内面と向き合い、時代をとらえ、社会をえぐる句が生まれた。

原発事故、戦争、平和-。「傍観者じゃ何も変わらない。自分の意思を表明しないと」。作句のテーマは常に実社会と絡み合う。

5月22日、18回目の誕生日を迎えた。初めての1票を投じる覚悟はできている。
(報道部・吉江圭介)
(注)〓示へんに寿の旧字体

関東ネットより/ ​せんきょいこネットとのコラボ企画  第24回参議院議員選挙候補者へのアンケート 結果公開

(放射能からこどもを守ろう関東ネットよりシェアします。来る7月10日の参院選、争点ぼかしばかりが目に付きますが、やはり気になる「被ばく対策」等について、関東ネットの皆さんが議員候補者へのアンケートに取り組んでくださいました。ぜひご覧の上、投票に向けて呼びかけできればと思います。 子ども全国ネット)

http://kodomokanto.net/%E2%80%8Bせんきょいこネットとのコラボ企画%E3%80%80-第24回参

放射能からこどもを守ろう関東ネット

私たちはこれまで、「原発事故子ども・被災者支援法」にかかる請願署名提出や環境省はじめ関係省庁との対話交渉などをおこなってきました。活動を通してわかった事は、暮らしや子育ての環境は自分たちが動かなくてはよくならないということ。それが「政治」というもので、実は私たちひとりひとりが参加すること。そして、私たちにできることの第一歩が「選挙」だと感じました。地元の声を国政へ届けてくださる議員さんの存在はとても大切です。

6月22日公示日をもって、第24回参議院議員総選挙がスタートしました。「汚染状況重点調査地域」となった茨城県、千葉県、埼玉県、栃木県を選挙区とする、候補者のみなさんは、どのようなお考えをお持ちなのでしょうか。

「放射能からこどもを守ろう関東ネット」では、「せんきょいこネット」とのコラボ企画として、『第24回参議院議員選挙 候補者へのアンケート』を実施しました。

アンケートをお願いしたのは、茨城県、埼玉県、千葉県、栃木県​の4県を「選挙区」とする候補者です。

2016年6月22日24時までに回答いただきましたアンケート結果を公開いたしました。

アンケートを送信した6月22日時点で御連絡がとれずにいる立候補者については、「連絡中」となっています。
アンケート内容はこちら
県別にまとめましたので、ダウンロードしてご覧ください。
アンケートにご協力いただきました皆さま、ありがとうございました。

2016/06/21

【報道まとめ】千葉/指定廃棄物の濃度測定

千葉市、指定廃棄物の濃度再測定へ試料採取

2016年6月21日 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201606/CK2016062102000177.html

東京電力福島第一原発事故で発生した指定廃棄物に含まれる放射性物質の濃度を再測定するため、千葉市は二十日、美浜区の新港清掃工場内で保管する指定廃棄物から試料を採取した。

市の指定廃棄物は七・七トンあり、工場二階にあるシャッター付き作業場内で保管。袋詰めした上、ブルーシートをかけている。試料の採取は指定解除に向けた作業の一環。委託を受けた民間業者が、複数箇所から計二キロ程度の焼却灰などを集めた。月内にも測定結果を公表する。 (内田淳二)
ブルーシートでおおわれた指定廃棄物=千葉市美浜区で 


指定廃棄物のサンプル採取 千葉市

2016年6月21日 産経ニュース
http://www.sankei.com/region/news/160621/rgn1606210057-n1.html

千葉市で保管されている、東京電力福島第1原発事故で発生した指定廃棄物のサンプル採取が20日、7・7トンの指定廃棄物を保管する新港清掃工場(美浜区新港)で行われた。放射性セシウム濃度の再測定が目的で、市から委託を受けた業者が実施した。

指定廃棄物は焼却灰6袋と、汚水から放射性セシウムを吸着した鉱物「ゼオライト」8袋に分けて保管されている。作業前にはブルーシートを覆って保管している様子が報道関係者に公開された。

各袋から焼却灰は1カ所、ゼオライトは2カ所ずつ同量を取ってそれぞれを混ぜ、そのうちの500グラム~1キロをサンプルとして採取した。測定結果は今月中に出る見通し。市は事故から5年以上が経過しているため、全量の放射性濃度は指定基準の「1キロ当たり8千ベクレル」を下回ると推計している。

食品中の放射性セシウム濃度の検査結果(平成23~27年度)(速報値)

2016年6月21日 農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/radio_nuclide.html

農水省は食品中の放射性セシウム濃度の検査結果を国民に伝えるため、ホームページに新設した。

平成23~27年度の5年分のデータを整理して掲載した。食品中の放射性セシウム濃度を年度別や品目別で掲載している。また都県別の詳細な検査結果もダウンロードできる。


食品中の放射性物質に関する「検査計画、出荷制限等の品目・区域の設定・解除の考え方」(原子力災害対策本部策定)(以下「ガイドライン」という。)に基づいて、平成23年度から27年度に対象自治体(17都県)が実施した出荷前の農産物等の検査結果をまとめました。






「復興住宅」建設を一時停止 福島県、入居希望世帯減り見直しへ

2016年06月21日  福島民友
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20160621-085876.php 

県は20日、東京電力福島第1原発事故の長期避難者向けに建設中の復興公営住宅について、自宅を再建するなどして入居希望世帯が減ったため、当初計画していた4890戸のうち211戸(福島など5市町村)の建設を一時停止することを決めた。県庁で開いた新生ふくしま復興推進本部会議で示した。

県は本年度までに3406戸を建設する。追加の意向調査などから入居希望が減ると見込まれるため、2017(平成29)年度に完成予定の1484戸のうち、211戸の建設を見直す。

今月下旬に県は復興公営住宅の第5期募集を行い、応募状況や住民の住宅取得意向などを再び見極める。需要があると見込まれる場合は建設凍結を解除し、追加で募集を行う方針だ。

県は復興庁、避難市町村とともに13年度に実施した住民意向調査に基づき、いわき、南相馬、郡山など15市町村に4890戸の復興公営住宅を建設する計画だった。

放射性廃棄物を学校に“放置” 横浜市、5年以上も/神奈川

2016年06月21日 女性自身
http://jisin.jp/serial/other/kanaloco/24387  

2011年3月の東京電力福島第1原発事故によって放射性物質に汚染された「指定廃棄物」が、横浜市の市立小中学校など17校に合計約3トン置かれたままになっている。指定廃棄物は1キロ当たりの放射性セシウム濃度8千ベクレル超で汚染濃度が高く、処理の責任は政府にある。ところが、処理法や場所が決まらず、同市が5年以上も「暫定管理」している。指定廃棄物を公立校に置いているケースは全国になく、専門家は「環境省の怠慢。一日も早く教育現場から撤去すべきだ」と指摘している。

放射性物質の管理基準は、原子炉等規制法で放射性セシウム濃度が1キロ当たり100ベクレルと定められている。原発施設内などで発生した100ベクレル超の放射性廃棄物はドラム缶に入れて密閉し、厳重に管理する。しかし、原発事故後の12年1月、暫定法の放射性物質汚染対処特措法が施行。基準を従来の80倍に引き上げ1キロ当たり8千ベクレルとした。8千ベクレル超の廃棄物は環境大臣が「指定廃棄物」に指定、政府の責任で処理すると規定している。

横浜市の「指定廃棄物」は、「雨水利用施設」の貯水槽にたまっていた汚泥。同施設は学校の屋上から雨水を集水し、トイレの洗浄水として再利用する設備で、原発事故以前は市内の44校が利用していた。

事故後に、民間の廃棄物処理業者が汚泥の放射能濃度の測定を要望。測定した市が11年12月、計18校で1キロ当たり8千ベクレル超の放射性セシウムを確認した。2年後の13年9月、直前の測定で基準値を超えた17校の約3トンについて環境大臣に指定廃棄物の申請を行った。

環境省は同12月、指定廃棄物に指定したものの、市に対しては「処理体制が整うまでの間は、施設管理者にやむを得ず一時的な保管をお願いせざるを得ない」と伝えた。ところが、今年5月、同省関東地方環境事務所は市に「処分の見通しが立っていない」と説明。高濃度の放射性物質が学校の敷地内に置かれたままの事態が5年以上も続く結果となっている。

同問題について、林文子市長は5月27日の市議会本会議で「指定廃棄物は国の責任で処分されるべきで、引き続き国に対しては早期の処分を求めていく」と答弁。「子どもたちが集まる学校での保管が長期化しており、安全面、安心面双方に配慮した保管の在り方について議論を進めていく」とし、移管の検討を始めたことも明らかにした。

環境省の指定廃棄物対策担当参事官室は「一刻も早く搬出すべきと思っているが、搬出先がないという現状がある。空間線量に異常値は見られず、問題はないと考えている」と話している。同室によると、原発事故による指定廃棄物は、福島県を含む12都県で17万トンに上る。

(写真・神奈川新聞社)

【指定廃棄物が保管されている17校】
港南台ひの特別支援学校、あかね台中、下野谷小、南山田小、末吉小、軽井沢中、森の台小、杉田小、都筑小、東山田中、早渕中、青木小、東山田小、十日市場中、茅ケ崎東小、山下みどり台小、中山中
横浜市教育委員会のホームページ参照

◆一刻も早く撤去を
廃棄物問題に詳しい環境ジャーナリスト青木泰さんの話

100ベクレルを超える放射性物質およびその汚染物はドラム缶に封入した上で、自然災害に影響を受けない強固な施設で何百年も管理しなければいけない危険物。その80倍もの汚染度の高い指定廃棄物を、子どもたちが学び、生活する場である学校に5年以上も放置していること自体、非常におかしい。環境省は明日にも撤去すべきだ。文科省も事実を知っていて放置していたのなら責任がある。

【参考】
神奈川新聞
【動画】「なぜ、学校に」保護者ら憤り 放射性廃棄物“放置”


記事一部抜粋…(続きはサイトにアクセスの上、ログインしてご覧ください)

東電福島第1原発事故以降の食品輸入規制、台湾の駐日代表「年末までに見直し」

2016年6月21日 産経新聞
http://www.sankei.com/world/news/160621/wor1606210015-n1.html

21日付の台湾紙、聯合報によると、台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表は20日、東京電力福島第1原発事故後から続く日本食品の輸入規制の見直しについて「年末には結論が出るだろう」と台湾メディアに語った。

謝氏は、科学的な方法と国際基準に基づいて慎重に調査を行うため「5、6カ月はかかる」と述べた。

台湾当局は人体に影響のある放射性物質が含まれている可能性があるとして福島など5県産食品の輸入を禁止している。(共同)

学校の汚染土、7月から搬出=大熊町公園へ1万立方メートル-環境省/福島

2016年6月21日 時事通信
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016062100427&g=eqa

環境省は21日、福島県内の学校敷地内で保管されている放射性物質を含む汚染土について、7月から同県大熊町が保有する公園「ふれあいパークおおくま」(16ヘクタール)に搬出する方針を発表した。同町議会が汚染土の仮置き場として使うことを認めたためで、約1万立方メートルを運び込む予定だ。

汚染土は、東京電力福島第1原発事故の除染作業で発生。学校敷地内では計約30万立方メートルが保管されている。児童生徒の健康への影響が懸念されるため、国などが汚染土の中間貯蔵施設建設予定地である同県大熊、双葉両町に対しそれぞれの町有地での受け入れを要請していた。

映画「アトムとピース」渋谷イメージフォーラムにて公開中!

フリージャーナリストとして活躍する新田義貴監督の第二作映画「アトムとピース」がいよいよ18日(土)より渋谷のイメージフォーラムで公開されます!
テーマは、原爆と原発。難しいテーマだけに、完成までに様々な困難があったとか。そしてようやく公開にこぎつけたものの、最初の週にどれだけの観客が入るかによって今後のスケジュールが決まってしまうとか…。そんな厳しい世界で勝負を挑む新田監督に心からエールを送ります!どうか一人でも多くの方に観ていただけますように♪
★上映スケジュール
渋谷イメージフォーラム 6/18(土)から2週間は1日2回上映①11:00〜 ②21:00〜 7/2(土)以降は21:00〜
★舞台挨拶・トークショーもあります! 新田監督舞台挨拶 ・6/24(金)21:00からの上映後 新田監督&三重綾子さん(The Japan Times 記者) ・6/25(土)21:00からの上映後 新田監督&金平茂紀さん(TBS報道特集キャスター) ・7/1(金)21:00からの上映後 新田監督&鈴木達治郎さん(長崎大核兵器廃絶研究センター)








広島・長崎に原子爆弾が投下されてから71年

紛争が絶えない世界で核廃絶はいっこうに進まない。
唯一の被爆国であり世界の核廃絶をリードするはずの日本は、史上最悪の福島の事故を起こし、それでも再び原発を動かそうとしている。
「長崎を最後の被爆地に。」放射能の恐ろしさをいちばん知っていたはずの日本人が、なぜ福島の事故を起こしてしまったのか?
そしてなぜ今も原発にこだわるのか?
長崎の被爆3世の瑠衣子はこの疑問を胸に、福島・青森の原子力の平和利用の現場を旅する。
旅のなかで瑠衣子は、日本が大量のプルトニウムを保有していることを知る。
長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」の原料となった、あのプルトニウムだ。
いったいなぜ?
やがて瑠衣子は、政治家たちが隠してきたある事実を知ることになる。
長崎に生まれた者として、決して許せない事実を・・・。
プルトニウムがつなぐ長崎・福島・青森、そしてアメリカ。瑠衣子の旅を追ったロードムービー。


2016/06/20

茨城/指定廃棄物の保管強化 龍ケ崎組合が倉庫新設

2016年6月20日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160620/ddl/k08/040/088000c


東京電力福島第1原発事故で放出された放射性物質を含む指定廃棄物の処分問題で、一時保管団体の一つである「龍ケ崎地方塵芥(じんかい)処理組合」(龍ケ崎市)は19日、環境省の担当者を招き、住民説明会を開いた。組合は年内に敷地内に堅固な倉庫を建て、来春までに移し替える保管強化策を明らかにした。


環境省と一時保管する県内14市町は2月、それぞれの現地で「分散保管」を続ける方針を決めている。説明会は分散保管継続を受けて開かれたもので、住民13人が出席した。


組合は同市、利根町と河内町の3市町で構成される。ごみ焼却灰を固めた指定廃棄物181・5トン(242袋)を敷地内の車庫など3カ所に保管中だ。3カ所のすぐ近くで15日に測った空間放射線量は毎時0・69〜0・37マイクロシーベルトだった。


環境省によると、新保管施設は壁厚30センチの鉄筋コンクリート造で、放射線を98・6%遮蔽(しゃへい)できるという。放射能が減って8000ベクレル以下となると、組合と環境省が協議した上で指定を解除する。一般廃棄物となることから「市町村(組合)が必要な保管・処分を行い、環境省は技術的・財政的支援を行う」と説明した。


一方、住民は「国が責任を持って引き取ってくれるものと思っていた」「8000ベクレル以下になった時にその場所で処理というのは最初の約束と違う」などと不信感をあらわにした。環境省は「地元合意の下で処分できる場所を探す考えに変わりはない」と理解を求めた。(安味伸一)

(核リポート)被曝した人が語る 不気味な「鉄の味」

2016年6月20日 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ6K5QFZJ6KULBJ00Y.html

◆チェルノブイリ特別編:4
1986年4月に起きた旧ソ連・チェルノブイリ原発事故では、高放射線の下で作業した人たちの多くが、ある共通の感覚を経験した。「口の中で鉄の味がした」というものだ。

ベラルーシ南部のゴメリ近くにサビチという小さな村がある。今年3月末の段階でも、ブルドーザーが家を壊し、森の木を倒して地面に埋めていた。汚染地に人が住みつくのを防ぐためだ。30年を過ぎても事故処理の作業が続く村だ。

事故直後の86年5月、ベラルーシのテレビ局の記者だったガリーナ・ズロベンコさん(72)はこの村を訪れた。

事故2週間後の5月10日、テレビ局の数人が上司からひそかに呼び出された。上司は「これは上からの圧力ではない、『お願い』だ」といった。「お願い」とは原発近くの村で始まっている農民の強制疎開を撮影、記録することだった。

翌11日、バスにフィルムを満載して首都ミンスクを出発した。汚染地に向かう途中、20代の若い運転手は、「あなた方は40代で十分人生を見てきたからいいが、私はまだ若いし、結婚もしたい」と言ってバスを降りてしまった。運転手が代わった。

サビチ村など原発に近い地域は大混乱だった。即時疎開を命じられた農民は泣きながら荷づくりをし、家の窓に板を打ち付け、家畜を追い立てていた。

「放射能除去に効く」といわれていたウォッカを飲んで酔っ払っている人も多かった。殺されると知った牛や豚の叫びが響きわたる異常な状況の中、ガリーナさんらは懸命にフィルムを回した。

ガリーナさんはこの経験を語る途中で「鉄の味」の話を切り出した。「5月12日の朝から口の中で金属をなめるような味がした」。他のスタッフも同じだった。「チョコレートを食べるとき銀紙を一緒に口に入れてしまうときがあるでしょう? あの嫌な味です」

チェルノブイリ事故で被曝(ひばく)した人の話には、味覚がおかしくなったという話がしばしば出てくる。具体的に聞くと、「鉄(金属)をなめた味」という表現が多い。「甘いスイカを食べても味がおかしい、甘くない」とも聞いた。
今年3月、ベラルーシのミンスクで、5人のリクビダートル(事故処理作業者)にインタビューした。

話を聞いた5人全員が、かつて鉄の味を経験していた。

そのひとり、タマーラ・コレスニクさん(68)によると、「鉄の味だけでなく、口が渇く、目が乾くというのが一般的な症状だった」。不気味なので、同僚同士でも症状の話はあまりしなかったという。

看護師だったタマーラさんは事故直後、被災地の村で感染症予防などの任務についた。「あるときその場所の放射線が非常に高いと知り、逃げ出したくなったが、できなかった」。

タマーラさんは事故2年後に40歳でぜんそくになり、その後、関節が悪化。事故4年後の90年から働けなくなった。いま手足の関節が悪く、痛み止めなしでは歩けない。「私は若く健康だった。もっともっと働きたかった」と涙ぐんだ。

チェルノブイリ事故直後、炉心で火災が起き、消火作業にヘリコプターが使われた。

事故当時24歳だった乗員、イーゴリ・ピシメンスキーさん(ウクライナ)に話を聞いた。2006年のことだ。

「高さ200メートルの原発の煙突を目安にホバリングし、落下傘で緊急につくった袋から砂などを落とした。1回につき3トン。だが、狙うのは難しかった。放射線は高く針が振り切れていた。1回目の飛行から体に何かの異常が起きていると感じた。金属の味がした」。4月27日から5日間で29回飛んだ。

その後、全身の倦怠(けんたい)感など体調が悪化し、97年に3級の身体障害者になった。

「味覚の変調」の原因は放射線だ。放射線は主に生まれ変わっている細胞の遺伝子を傷つける。がんの治療に放射線を使うのは、がんは細胞がどんどん生まれる病気だからだ。

口腔(こうくう)や咽頭(いんとう)のがんの治療に放射線を使う場合、重要な部分にカバーをつけても、粘膜などを傷つけたり、唾液(だえき)腺が影響を受けたりして唾液が出にくくなる、あるいは味覚が変わることがある。これと同様の症状が出ていたといえる。

チェルノブイリ事故後の作業では線量計が不足し、正しい被曝(ひばく)量が分からない場合が多いが、しばしば人間が感じるほどの高線量の中で仕事をしていたという証拠でもある。

元テレビ記者のガリーナ・ズロベンコさんにはもう一つの記憶がある。高放射線下にいたとき、住民の顔に白い線があったというのだ。

「眉と眉を結ぶ横の線、額の真ん中から鼻筋を通る縦の線。ちょうど十字架のようだった。女性に多かったように思う」。あれは何だったのか。放射線に関係あるのかないのかも含め、その後、だれに聞いても分からなかったという。

ガリーナさんらが混乱の中で撮影したフィルムは、旧ソ連国家保安委員会(KGB)によって「放送中止」になった。フィルムは押収され、行方不明になった。

しかしその5年後、フィルムは見つかり、事故20年後の06年にはテレビ番組となって日の目を見たという。(竹内敬二)




ベラルーシのリクビダートルでつくる
「チェルノブイリ傷病者の会」メンバー。
かつての事故処理作業で、全員が「鉄の味」を経験した
=2016年3月、ミンスク、杉本康弘撮影



◇ たけうち・けいじ 朝日新聞で科学部記者、ロンドン特派員、論説委員、編集委員などを務め、環境・原子力・自然エネルギー政策、電力制度などを担当してきた。温暖化の国際交渉、チェルノブイリ原発事故、3・11などを継続的に取材。著書は、電力業界が日本社会を支配するような社会産業構造がなぜ生まれたかを描いた『電力の社会史 何が東京電力を生んだのか』(朝日選書、2013年)。

福島/避難世帯半数近くが別居 震災と原発事故で

2016年6月20日 共同通信
http://this.kiji.is/117459321924517889?c=110564226228225532

福島県は20日、東京電力福島第1原発事故と東日本大震災で県内外に避難している県民を対象とした2015年度のアンケート結果を発表した。震災前は一緒に暮らしていた世帯のうち、半数近くの47.5%が、家族が2カ所以上に分散して別居生活をしていると答えた。

アンケートは、避難者の現状を把握するため13年度から毎年実施。今年2~3月、約5万8千世帯に郵送し、約1万6400世帯から回答を得た。

心身の不調を訴えている同居家族がいると答えた世帯は62.1%に上り、長期化する避難生活が心身への負担となっている状況が浮き彫りとなった。

茨城/指定廃棄物の専用保管庫を建設へ 環境省、龍ケ崎で住民に説明

2016年6月20日 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201606/CK2016062002000167.html

東京電力福島第一原発事故で発生した指定廃棄物について、環境省は19日、龍ケ崎市内の龍ケ崎地方塵芥(じんかい)処理組合で保管中の181.5トンの管理強化策として、専用保管庫を建設する方針を地元に説明した。

環境省は、各県に1カ所ずつ処分場を建設する方針だったが、いずれも実現のめどは立っていない。今年2月、県内では当面は処分場を建設せず、現状のまま分散保管の継続を認めると方針変更した。

処理組合内の指定廃棄物は、化学繊維製のフレコンバッグ242袋に詰められ、敷地内のガレージとペットボトル保管庫、資源物保管庫に保管。周囲の空間放射線量を計測している。

説明によると、保管庫は敷地内に建設し、高さ約5メートル、長さ約15メートル、奥行き約10メートル。コンクリート製で壁の厚みを約30センチにすることで、放射線を98・6%遮断できるという。今月から設計を始め、9月に着工、来年1月の指定廃棄物の搬入を目指す。

処理組合で開かれた説明会には、約20人の住民らが出席。「最初の約束では国が引き取ってくれるはずだった。放射能濃度が下がって指定が外れれば、どこかに移してもらえるのか」などの質問が出された。環境省や県の担当者は「まだ決まっていない」「慎重に検討する」などと答えるにとどめた。

県内の指定廃棄物は、主に焼却灰や汚泥などで、今年3月末現在で約3600トン。14市町のごみ処理場など15カ所に、暫定的に保管されている。環境省は他の自治体とも保管強化策を協議している。 (宮本隆康)
新たな保管庫について住民に説明する
環境省の担当者ら=龍ケ崎市で 

チェルノブイリ30年をたどって(連載)

(チェルノブイリ30年をたどって:1)エチルアルコールで宴会
2016年6月6日 朝日新聞

幼なじみの3人は草上の宴会を始めた。
左からイワン、通訳の女性、ピョートル、ミコラ。
右下の日付から1990年6月18日のことだとわかる 




今年3月31日、私はチェルノブイリ原発事故30年の取材で、ウクライナ北部の町ナロジチにいた。

原発の西約70キロにある農村地帯だ。放射能汚染のレベルは、いまも相当高い。

集会所で森林保護区の事務局長に話を聞いていたとき、一人の男がのっそり入ってきた。ハンチング帽をかぶっていた。

「ミコラだ」という。家畜試験所長の? 思わず問い返した。「そうだ。あなたと野原で酒を飲んだミコラだ」。ほぼ26年ぶりの再会だった。

30年前の1986年4月26日、チェルノブイリ事故は起きた。私が朝日新聞取材チームとして現地を最初に訪れたのは、4年後の90年6~7月。当時はソ連の時代で、外国メディアとしては最も早い時期の本格取材だった。

1カ月でロシア、ウクライナ、ベラルーシを回ったが、ナロジチの町で会った3人の記憶が強烈だった。

町はちょうど疎開時期だった。地域の汚染レベルは「疎開が必要」。「強制疎開」に次ぐ2番目の高さだ。疎開決定が89年と遅れ、移住先の確保も大変とはいえ、汚染地に4年も住んでから動くのか、と驚いたのを覚えている。すでに町では新生児死亡率が上昇気味との指摘が出ていた。

引っ越しで町がざわつくなか、私は家畜試験所に所長のミコラ・ガリンチク(当時48)を訪ねた。家畜の奇形出産増加について聞くためだった。

一段落して、ミコラが「放射能を除く薬だ」といって三角フラスコに入った透明の液体を持ってきた。ウォッカか、と思ったが、仕事で使うエチルアルコールだった。ウォッカは飲み尽くしていた。

ほぼ100%の生(き)のエチルアルコールを飲むのは初めてだった。火が口中に広がる。「火、火!」とのどを指すと大笑い。私は途中から水を半分いれた「水割り」にした。

試験所には、パソコン技師のピョートルと町ソビエト議長のイワンもいた。3人は幼なじみだ。

強烈なアルコールのせいか、みんなで近くの野原にでた。夏の太陽の下、きれいな小川の横で宴会になった。エチルアルコール、だれかが調達してきたウォッカ、チーズ、ハム、イチゴ。放射線を気にしながらの宴会が続いた。誰もが疎開を嫌がっていた。ピョートルは両親を残したまま町を去るという。「放射能があるなら見せてくれ、が父の口癖でね」

興に乗ったミコラは「町とも友人ともお別れだ」といい、下着姿になって小川にバシャーンと飛び込んだ。奇形魚がとれた川だ。やけっぱちの気持ちが伝わってきた。

3人はあれからどんな人生を送ったのか。ずっと気になっていた。そして今年、ナロジチを訪れた私のことを聞きつけ、ミコラは車で駆けつけてくれたのである。

「エチルアルコールを飲ませたことはよく覚えてるよ」と笑った。ただ26年ぶりの話は意外なものだった。「私はこの町を離れていない。疎開しなかった」=敬称略

(文と写真・竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:2)勝手に戻って、町は残った
2016年6月7日

チェルノブイリ原発事故による汚染の分布

 






チェルノブイリ原発事故から4年後の1990年6月、原発から約70キロ離れたウクライナ北部の町ナロジチを取材した。放射能汚染による集団疎開の直前だった。そこでミコラとイワン、ピョートルの幼なじみ3人に出会った。

今年3月、そのうちのミコラ・ガリンチク(73)と26年ぶりに再会した。家畜試験所長だった彼の暮らしは、この四半世紀でどうなったのか。

疎開でミコラに与えられたのは、約100キロ南の都市ジトーミルのアパートだった。一家で移ったが、間もなくミコラだけナロジチの元の家にこっそり戻ったという。

「住所はジトーミルに置いて、住んでいるように見せかけた。追い出されかけたこともあったが、不便でも住み慣れた所が一番だ」。ジトーミルに残した家族には、しばしば会いに戻ったという。

チェルノブイリ周辺の汚染地は、1平方メートルあたりの放射性セシウムのレベルで4段階に分類された=地図参照。高い順に「強制疎開」「疎開が必要」「疎開してもよい。その場合は国が支援」「放射能の監視が必要」とされた。

ナロジチは2番目の「疎開が必要」。しかし、この町は珍しい歴史をたどった。疎開した人々が次第に戻り、町が存続したのだ。かつて中心部の人口は約6千。疎開後も「500人が勝手に残って、1500人が勝手に戻った」といわれる。今は約3千人。

厳しく管理された疎開で、こんなことが可能なのか?

町の幹部に聞くと「仕方がなかった」という。「キエフなどの都会になじめなかった老人が、どんどん帰ってきた。状態のいい空き家の使用を黙認した」。自分の家には他人がいたので、別の空き家に住んだという話も多い。

汚染地には厳しい規制がある。家や土地は売買できない。地元の農作物や森のキノコなどは食べられない。放射性物質が飛ぶので、森の木を薪に使うこともできない。

代償として「きれいな食料を買う手当」が出る。しかし住民に聞くと、「気にしないで地元のものを食べている」。手当は生活費一般に消える。これが実態だ。

ミコラは「その後も結局、家畜試験所に勤務できたし、まあ満足だ」と振り返った。

話を聞くうち、幼なじみ3人の一人のイワンと電話がつながった。この26年は「幸せだった」と即答した。都会のジトーミルで大変いいアパートをもらい、2人の子どもは大学に進んだ、という。

もう一人のピョートルも首都キエフで元気だそうだ。

ナロジチで聞いたことわざ。

「1日幸せになりたければ、だれかを愛せ。1カ月幸せになりたければ、結婚しろ。100年幸せになりたければ、友人をつくれ」

3人がそこそこ幸せそうなのは、友だちのおかげか。

とはいえ、イワンは病気だらけだとこぼした。胃潰瘍(かいよう)、高血圧、尿路結石。「妻も足の関節が悪くてほとんど歩けない」。ミコラも心臓が悪いという。体調不良には放射能が関係するのではないかと思っている。=敬称略

(竹内敬二)


(チェルノブイリ30年をたどって:3)外観はスマートになっても…
2016年6月8日


チェルノブイリ原発4号炉(右)を覆うための
「かまぼこ形」の新シェルター
=4月2日、杉本康弘撮影
 




チェルノブイリ原発では、事故炉を覆う新シェルター建設が進む。近づくと本当に大きい。高さ109メートル、幅257メートル、長さ162メートルもある。

建設を請け負うノバルカのプロジェクトリーダー、ニコラ・カイエが現場にいた。「除染が大変だった。事故直後にさまざまな汚染物が埋められており、その処理から始めた。建設現場は事故炉から350メートル離れているが、放射線を避けるためだ」

今年11月には新シェルターがレールの上を移動して、高さ72メートルの「石棺」をすっぽり覆う。そうなると、チェルノブイリ原発はスマートな「かまぼこ形」の外観になる。

石棺は30年前の事故直後、遠隔操作を多用して、半年ほどの突貫工事でつくった。さびや汚れが目立つ外観は、事故の恐怖を見せつける。

そのチェルノブイリ事故の象徴が隠れる。そもそも事故はどんなものだったのか。

1986年4月26日午前1時23分、計画停止に向けて出力をしぼっていた4号炉が突然暴走し、爆発。炉心で火災が発生し、放射性物質が飛び散った。炉心は高温になって核燃料がどろどろに溶け、それが大気に直接触れるという想像を絶する事態になった。

制御棒の設計ミスや、暴走しやすい炉の性質、操作の不手際が重なった。

高放射線のなか、消防士たちは火災に立ち向かった。約30人が急性放射線障害などで日を置かずに死亡した。

この惨事を世界は3日間、知らなかった。当時のソ連が黙っていたからだ。放射性物質が風で北欧まで飛び、そこで検知された。ソ連の公式発表は発生からほぼ68時間後の28日午後9時だった。

周辺住民への情報発信も遅く、少なかった。

原発から約4キロ離れた町プリピャチでは、事故から1日近くが過ぎた26日夜、住民が丘やアパートの屋上などから、空を真っ赤に焦がす「発電所の火事」を見物していた。翌27日午後、彼らは突然現れた約1200台のバスと3本の列車に乗せられた。「3日分の用意を」といわれたが、以来、町は無人だ。

「ウクライナ日記」などで有名なウクライナの作家、アンドレイ・クルコフは私のインタビューで「ソ連政府の罪は、5月1日のメーデーまで事故の実態を隠し続けたことだ」といった。メーデーは国民的祝日であり、多くの人が連日、行進やマスゲームを練習していて、被曝(ひばく)した。

原発から半径30キロ圏内の11万6千人の避難決定は、5月2日だった。

石棺の建設作業も膨大な被曝者を生んだが、問題だらけだった。「密閉した構造物」と宣伝されていたが、90年の現地取材では「隙間の合計は1千平方メートル」という驚くべき答えが返ってきた。内部は暖かいので、鳥が巣をつくりスイスイ行き来していた。2006年の取材でも、隙間はまだ「100平方メートル」あった。

新シェルターが完成すれば「100年は大丈夫」とされる。だが内部には、溶けて固まった核燃料の残骸がある。最終的解決は数十年単位の壮大な先送りになる。
=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:4)疎開の村、人気ベッドタウンに
2016年6月9日



中央の花束を持つ女性が通訳、
右隣が筆者、その右2人目の横顔の少年が
13歳のオディネッツ=1990年6月17日 















ウクライナの首都キエフの南西約30キロにある新ボロービチ村とは、長いつき合いだ。

今年3月に訪れると、住民たちが古い写真を持ってきてくれた。1990年、初めて取材にきたときの1枚だ。青いスーツ姿の男性が、集合写真に写る一人の少年を指さした。「これは私です」

ウラジスラフ・オディネッツ(39)だった。当時13歳。いまはキエフ州ワシリキフスカ地区の地区長だという。

立派になりましたね。思わずそう語りかけると、恥ずかしそうに握手を求めてきた。「あなたが最初に来た日をよく覚えている」といって、当時の記憶を話し始めた。

新ボロービチ村は、原発事故から逃れてきた「疎開者の村」だ。私との出会いは異例なものだった。

90年6月17日、村の路上で住民に話を聞いていると、軍用四輪駆動車が目の前で止まった。兵士数人が降りてきて、私と通訳を連行しようと車に乗せた。

実はその朝、誤って軍の駐屯地の写真を1枚撮ったことが問題にされ、事情を聴かれていた。まもなく放免されたのだが、兵士は「まだ聴取が終わっていない」という。

ところがそのとき、何人もの村人が車を囲んで、動けないようにしたのである。「苦しい疎開生活の取材を邪魔するのか」という抗議だった。

結局、私たちは再度連行され、3時間ほど聴取を受けた。夕方前に疲れ切って村に戻ると、今度は大勢の村人が「よかった、よかった」と拍手で迎えてくれた。心配して待っていてくれたのだ。そして、バラの花束をもらった。

そのバラを持った写真に、オディネッツが写っていたのである。

以来、新ボロービチは私にとって特別な村になり、多くの友人もできた。

村の人たちはもともと、原発の西約40キロの旧ボロービチ村に住んでいた。松とシラカバの森に囲まれ、ホップやジャガイモ、麻などをつくり、畜産も盛んだったという。

86年4月26日、チェルノブイリ原発が爆発した。村は汚染され、住民は大きく4カ所に分かれて移住した。その一つが新ボロービチ村だ。

90年の最初の取材では、みな故郷の話ばかりしていた。

「4年も経つのに、まだ放射能があるという。日本の技術でなくならないか」。老人たちは「すばらしい元の村に帰りたい」を繰り返した。森にはサクランボ、コケモモ、イチゴが豊富にあった。

しかし、年月とともに村の雰囲気は変わっていった。

86年に移住した357人のうち、今年までに165人が死んだ。旧ボロービチ村や、原発での除染を話してくれた人は、次第に減っていった。

今やリーダーはオディネッツらの世代だ。村長のリュドミラ・サブチェンコは34歳。「人生でエネルギーを費やしたところや、大事なことをしたところが、その人の故郷でしょう。いまの住民には、新ボロービチ村が故郷です」

「疎開者の村」だった新ボロービチ村はいま、キエフに通いやすい人気のベッドタウンになっている。=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:5)村長だった彼女の献身
2016年6月10日




1990年6月。
右からスベトラーナ、ボロージャ、
ユーラ=ウクライナ・新ボロービチ村
 


 


新ボロービチ村で、ある家族と親しくなった。

1990年6月に初めて村を訪れたとき、スベトラーナ・カリストラトワは42歳で、村長を務めていた。再婚したばかりの夫ユーラは30歳、次男ボロージャは11歳。

スベトラーナは陽気で行動力にあふれ、住民の生活向上に奔走していた。

村はチェルノブイリ原発事故の疎開者がつくった。住民は周辺の集団農場に配属されたが、すでに人員は足りていて、トラブルも多かった。「放射能がつく」「チェルノブイリ人」などといわれた。

女性は子どもを望まず、中絶も多かった。男性は性的不能への不安をもち、酒浸りになった。離婚が増えた。

最も苦しかったのは、経済危機の90年代半ばだったろう。肥料や家畜のえさ、トラクターの燃料が不足し、生産が落ちた。給料は遅れ、砂糖やソバの現物支給になった。

「事故直後はお金があってもモノがなかった。いまはモノがあってもお金がない」。96年に再訪した時に聞いた、スベトラーナの言葉だ。市場経済が広がっていた。

それでも彼女はリーダーとして住民をまとめ、奮闘した。住民が切望した都市ガスが96年にやっと引けた。

2001年、3回目の訪問。4月26日、村の広場で、事故15周年の集会が開かれた。彼女は村長として、こんなあいさつをした。

「もう元の村に帰ることはできません。ここが、みなさんの第二の故郷です」。老人たちが涙をふく。帰れないことは分かっていた。納得する時間として、15年が必要だったともいえる。

このころ新ボロービチも若い人中心の村へ変わりつつあった。スベトラーナの人生にとっても転機だったろう。

旧村への思いは、スベトラーナも人一倍強かった。男の子を2人産んだ。夢だった家を85年10月に建てたが、翌年4月に原発事故で失った。

取材ノートには、スベトラーナの弱気の声が出るようになった。「私は村長として、村の人を助ける努力をしてきた。でも自分の楽しみはほとんどなくなった」(01年)

03年に夫ユーラを病気で亡くした。05年には、約15年務めた村長を引退。06年の取材ノートにこうある。「死ぬまでに東京とパリを見たい」

今年3月、再会した。いまはキエフのアパートに1人で暮らす。「原発事故で人生が変わってしまった」と振り返り、「私の役割も終わった」とつぶやいた。

次男ボロージャは、チェルノブイリ被災者の特別枠もあってキエフ大学に進み、法律を学んだ。11年まで軍の法務部門で働いた。37歳のいまは、母親がつくった慈善基金の事務局長だ。

ウクライナを去る前、スベトラーナやボロージャ一家と食事をした。ボロージャの息子の名もボロージャ。10歳でダンスが得意だという。私が26年前に父ボロージャと会ったときと同じ年頃だ。

30年で人生はこれだけ変わる。38歳で原発事故に遭ったスベトラーナは、いま68歳。=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:6)25年たって、なぜ福島で
2016年6月13日


1996年3月、原発事故10年を機に、
かつて「石棺」建設に携わった労働者たちが
「同窓会」のようにチェルノブイリを訪れていた。
一人が「ベラルーシから来た。思い出したくはない」
と表情を変えずにいった 


チェルノブイリ原発事故をめぐって、これまでに5回、現地を訪れた。過去の取材では、「遠い国の悲劇」とみていたことは否定できない。地元の人々にとっても、日本は遠く感じられただろう。

しかし、福島第一原発事故がおきると、日本に向けられる視線は一変した。「なぜ防げなかったのか」が問われることになったのだ。

今年3月、ウクライナ・キエフ郊外の新ボロービチ村で、ニーナ・テレシェンコ(78)に会った。「これだけは、いっておきたかった」と彼女は語り始めた。

「教えてほしい。なぜ福島で、日本で、事故がおきたのか。すべてチェルノブイリで経験したはずなのに……。ニュースを聞いて、震えと涙が止まらなかった」

故郷は事故で汚染され、疎開してきた。娘のレイサは疎開後、14歳で白血病で死んだ。「故郷へ帰りたい」といっていた元ジャーナリストの夫も、5年前に死んだ。

ウクライナでは、日本の科学技術は大変高いと思われている。なのに25年もたって、似たような事故をおこした。

チェルノブイリ事故の現地を何度も見るうちに、私は「日本なら対応できないかもしれない」という怖さを、二つの点から感じていた。

一つは、多くの住民が移住する土地はあるのか。もう一つは、大事故を収束させるために命にかかわる作業を命じることができるのか。

2001年、原発運転員だったエウドチェンコ(当時48)にキエフで話を聞いた。

事故のとき、爆発した4号炉の隣の3号炉の運転室にいた。3号炉を止めたあと、高放射線の中、同僚と一緒に、4号炉の運転員ホデムチュクを捜しに行った。3回試みたが見つからなかった。ホデムチュクは、がれきに埋まっている。一緒に行った同僚は急性放射線障害で死亡した。

彼の場合は、命令を待たずに動いた。一方、命令を受けて、多くの人が高放射線の中で事故に立ち向かった。30人近くが犠牲になった消防士、上空から砂を落としたヘリコプター乗務員、ロボットも使えない中で核燃料の残骸をスコップで処理した兵士。そうした作業があり、放射能の大量放出が10日間で止まった。

エウドチェンコは「我々が逃げずに闘い、世界に汚染が広がるのを防いだことを知ってほしい」といった。

チェルノブイリ事故のとき、日本は32基の原発を持ち、増設まっしぐらだった。事故から3カ月後の1986年7月、当時の通産省の総合エネルギー調査会は「2030年には原発の発電シェア58%、原発数は約140基」とのビジョンを出した。翌87年5月、原子力安全委員会の特別委員会が出した最終報告書は、「早急に現行の安全規制、防災対策を変更する必要はない」と結論づけた。教訓はない、ということだ。

福島第一原発事故が、なぜ日本でおきたのか。答えの一つは「チェルノブイリの教訓をまじめに考えなかったから」だ。宿題は残る。「福島の教訓は十分に学んだのか」である。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:7)子どもの甲状腺がんだけなのか
2016年6月14日


がんで甲状腺を摘出したゴメリ医科大の学生。
さりげなく襟の高い服を着ていた=2006年3月
 


首の手術痕を隠すため、襟の高い服を着ていた。2006年3月、ベラルーシ南東部の都市ゴメリのゴメリ医科大学で、がんで甲状腺を摘出した医学生6人に話を聞いた。

マリーナ・イワンチコワ(当時22)は、2歳でチェルノブイリ原発事故に遭い、10歳で手術を受けた。「プールにいる私を見て、母が『のどが腫れている』と気づいた。それほど大きくなっていた」

タチアナ・クラフチェンコ(同21)は9歳で摘出した。「手術で声帯が傷つけば、声を失うといわれた。手術痕がきれいなのがうれしい」

チェルノブイリ事故の健康被害として、「子どもの甲状腺がん」が知られる。だが、国際原子力機関(IAEA)は、なかなか認めなかった。

事故から5年の1991年5月、健康影響に関するIAEAの国際会議がウィーンで開かれた。私も取材した。

いまでは信じられないが、報告書は「統計上は健康への影響は見られない」。ウクライナとベラルーシの研究者が「こんな報告は認められない」と大声で抗議し、会場は異様な雰囲気に包まれた。

ベラルーシの事故対策特別委員会議長ケーニクは「報告書から『甲状腺がんの増加はない』との表現を削除して欲しい」と求めた。両国は記者会見し「楽観的過ぎる。受け入れられない」と抗議した。

だが、議論がかみ合わないまま会議は閉会。両国の主張に対し「地方の医師が見まちがったのだろう」と軽く見る雰囲気があったように思う。

「子どもの甲状腺がんの増加」がようやく認められたのは、95年のIAEAなどの国際会議。ゴメリの学生たちは手術を終えていた。ここでも影響は「子どもの甲状腺がんだけ」との結論になった。

地元の研究者は、甲状腺以外のがんや心臓病、免疫系の病気、胎児の奇形など、さまざまな影響を主張する。たいていは「被曝(ひばく)との関係の証明が不十分」と批判される。

証明が難しいのは、一人ひとりの被曝量の推定ができないからだ。食べ物による内部被曝では、事故後の生活や移動の情報が必要になる。

今年3月、「チェルノブイリ傷病者の会」のメンバーにミンスクで会った。ミハイル・コワリョフ(75)。事故直後の2カ月間、原発近くで水路建設を指揮した。脳の血管障害や白内障のほか、ほとんどの内臓が悪い。「病気の花束だ」。看護師だったタマラ・コレスニク(68)。現地で感染症防止に携わった。42歳で関節が悪化し、痛み止めなしでは歩けない。手の指の関節が大きく腫れている。「働きたかった。残念な人生だ」

現場でぶつかるのは、こうした話だ。影響が「甲状腺がんだけ」という結論には違和感がある。事故の実相をあいまいにする。放射能だけではなく、ストレスなど事故全体の影響を見るべきだろう。

子どもの甲状腺がんは、いま福島で増えている。

6日の県の発表では計131人。当初は「見つかるのは2・1人」との予測さえあった。県の検討委員会は「放射線の影響とは考えにくい」とする。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:8)人の30年、セシウムの30年
2016年6月15日


ノボズィプコフの公園で、親子が遊んでいた
 


チェルノブイリ原発事故から30年が過ぎた。人間では1世代。人生はまったく変わる。一方、主な汚染源の放射性セシウム137では半減期1回分。まだ半分が残る。

4月初め、ロシア南西部の都市ノボズィプコフを訪れた。人口約4万2千。ベラルーシ国境に近く、原発から約180キロ離れている。

広場を親子連れが散歩し、市場には復活祭に使う鮮やかな造花が並んでいた。静かな地方都市に見える。だが見えない放射能との闘いが、30年たっても続いていた。

「政府の決定は無効にして欲しい。そもそも最初の約束では、新しい町を建設し、そこに移住するはずだった」。ナオミ・グリービッチ(77)は憤る。長く地元の機械工場で働き、いまは年金生活だ。

事故後、周辺の汚染地は4段階に分類された。ノボズィプコフは上から2番目の「疎開が必要」だった。ところが昨年10月、ロシア政府は最新の放射能データにもとづく「改定」を実施した。ノボズィプコフは一つ下の「疎開してもいい」に変更された。

汚染の減少は喜ばしいことだ。しかし、住民は怒っている。なぜなのか。

事故直後、町全体を移転、疎開させる計画ができたが、失敗した。規模が大きすぎたのだ。連載2回目でとりあげたウクライナの町ナロジチの場合、移住先は用意されたが、住民が勝手に戻るなどして町が存続した。一方、ノボズィプコフの周囲には大草原が広がり、移住者を吸収できる大都市など存在しない。

結局、町は残った。住民には各種の補償が出た。きれいな食料を買う手当、年金の早期支給、税金の減免、医薬品の割引、2倍の有給休暇……。これらを合わせると収入の2割になるといわれた。

そんな生活が30年続いた。しかし、昨年の突然の「改定」によって、優遇措置も削減される。年金生活者のグリービッチの場合、「月約9千ルーブル(約1万5千円)から500ルーブル減額される」という。

ロシア政府が今回改定に踏み切った理由としては、財政難が指摘されている。そして、セシウムの半減期である「30年」という切りのよさがある。「放射能が半分になったから」といえるのだ。

汚染が低くなれば、手当も下がる。当然ともいえる。住民は甘えているのだろうか。

グリービッチはいう。「改善したといっても、事故直後から住み続けているから、町の病気の発生率は高い」

放射能が半分になったところで、汚染地であることに変わりはない。30年積み重ねた生活は変えようもない。

セシウムにとって、30年は放射能が半分になる時間だ。さらに30年で、当初の4分の1になる。専門家はしばしば「半減期が5回経過すれば汚染は相当減り、10回でほぼなくなる」という。セシウムの場合、半減期5回の150年で32分の1、10回の300年で1千分の1になる。

放射能が刻むゆっくりとした時間に、人は勝てない。待っていても、一人の人生の中で「放射能が十分に減った」といえる時はこない。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:9)子ども減り「負のサイクル」に
2016年6月16日

閉鎖された学校。床板が取り去られていた 



子どもが減ってしまえば、地域の復興はできない――。チェルノブイリ原発事故で汚染されたロシア南西部の都市ノボズィプコフを4月初めに訪れると、そんな危機感を持つ多くの人に出会った。

ここの汚染レベルは「疎開が必要」に指定されたが、住民全員が移住できる新たな場所はつくれず、町は残った。事故から30年。ロシア政府は昨年10月、最新の放射能データに基づく改定として、汚染レベルを「疎開してもいい」に1段階引き下げた。

それに伴い、さまざまな手当も減らされる。反発が強いのが、子ども手当の削減だ。

3歳までの子どもを持つ母親には、月1万ルーブル(約1万6千円)から2万ルーブルが支給される。金額が大きく大事な生活費だが、これが減額される。

「母親の会」が反対運動を始めた。「政府は『人が住んでいる地域に関しては、手当は変えない』といっていた。おかしい」。議長のオクサナ・イナシェフスカヤ(33)は反発する。11歳と14歳の娘の母親でもある。

会のメンバーは昨年暮れから今年にかけて、行政機関の前に集まり、横断幕を掲げて「減額の停止」を要求した。賛同が相次ぎ、当局は減額を今年7月に延期した。

一部とはいえ譲歩を引き出せたのはなぜか。オクサナの友人で、地区の議員を務めるドミトリー・シェフツォフが「地域の苦しい状況がよくわかる」といって、郊外の学校に案内してくれた。

かつては100人を超える小学生と幼稚園児がいたが、いまはそれぞれ10人だけ。暖房費などがかかるので、閉鎖の圧力を受けているという。

幼稚園児はちょうど昼寝の時間だった。校長がいう。「学校を閉鎖・統合して、この子たちを毎日バスで1時間もかかるところまで連れて行く? 疲れるだけです」

このあたりでは最近、六つの学校が閉鎖された。原因はやはり放射能汚染だ。

農業ができなくなり、工場は閉鎖されて、雇用が減った。若い人は職を求めてモスクワなどの大都会に出る。その結果、子どもが減る。ものが売れないので、さらに雇用が減る。「負のサイクルが起きている」とドミトリー。子ども手当まで減額されれば、ますますアリ地獄にはまる。

一方、当局がめざすのは「普通の地域」を取り戻すことだ。放射能レベルが下がれば、土地の売買が再開できて、農業開発などへの投資が期待できるという。

汚染レベルが下がるのは喜ばしいことだ。だが30年の間に、地域社会は傷んでしまった。数値が下がったからといって、「普通の地域」の暮らしが戻ってくるわけではない。

似たようなことは、日本でも起きつつある。

政府は福島県南相馬市南部の避難指示を7月12日に解除する。避難している住民への1人あたり月10万円の慰謝料も、2018年3月でなくす予定だ。だが故郷は以前のままではない。農業や漁業は元に戻るのか、仕事はあるか、周りの人はどのぐらい帰るのか。生活は放射能の数字だけでは決まらない。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:10)自らセシウムで人体実験
2016年6月17日


広島を訪れたソ連の調査団。
左がラムザエフ、1人おいて団長のボロビヨフ
=1987年1月15日、広島市の原爆養護ホーム


 
















チェルノブイリ原発事故をめぐる取材では、たくさんの人に出会った。強烈な印象を残した一人の研究者がいる。

事故から9カ月後の1987年1月、当時のソ連の調査団が広島などを訪れた。放射線被害者の治療法やデータ、患者のその後の追跡方法などは、「唯一の被爆国」である日本にしかなかったからだ。

迎える側は「世界が再び必要とすることはない」(当時の日本赤十字社広島原爆病院副院長・蔵本潔)ようにと願いつつ蓄積した知見を、余すところなく提供した。

同行取材中、日本の研究者から驚くべき話を聞いた。ある人の体内の放射能を測定すると、「もう少しで放射性物質になる」レベルだったという。放射性物質とされると、日本では取り扱いに特別な資格がいる。考えられないほど高い水準だ。

その人は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の放射線衛生学研究所長パーベル・ラムザエフ(当時57)だった。「ソ連で測ると、高い値が出る」と感じていたラムザエフは、広島での測定で数値を確認しようとした。

彼は頻繁にチェルノブイリを訪れ、対策にあたっていた。その話を聞いたときは、事故処理の過酷さを思った。

ところが、つい最近になって息子のワレリー・ラムザエフに連絡がとれると、父と同じ研究所の主任研究員である彼は、さらに驚くべき事実を教えてくれた。

チェルノブイリ事故から半年後の86年秋、父ラムザエフは5人の研究者とともに、志願してセシウム137と134を計37万ベクレル摂取したというのだ。

日本の基準では、野菜や肉などの一般食品の場合、摂取できるセシウムの上限は1キロあたり100ベクレル。この上限分の食品を3700キロ食べた計算になる。ソ連が開発した内部被曝(ひばく)測定器の精度を調整するためだった。

事故被害の分析には正しい測定が必要になる。さまざまな機械の精度を確認するには、自らの汚染を「基準」として扱うことが手っ取り早いと考えたのかもしれない。広島での測定はそれから間もなくで、まだ大量の放射能が残っていたことになる。

さらに、ラムザエフが所長を務めた放射線衛生学研究所の論文を改めて読んで知ったのだが、彼は事故の前にも、放射性物質についての人体実験の被験者として、自らセシウム137を摂取したという。体に入った放射性物質の移動や排出のスピードなどを調べた。

当時のソ連では、そうした実験が行われていた。極端なやり方だ。だが、原発を持つ国として「汚染事故は起こり得る」というリアルな認識を持ち、その影響について、考えられない厳しい姿勢で検証していた。

彼に直接話を聞く機会はなかったが、原子力を推進する専門家の責任感のようなものを感じた。

ラムザエフは2002年、心臓発作で死去した。息子ワレリーは、被曝と死因に関係はないと考えているという。=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:番外)「あの事件」がつなげてくれた
2016年6月20日


新ボロービチ村の人たちが集まってくれた。
中央の黒い上着の女性が村長だったスベトラーナ(68)、
右隣が現村長リュドミラ(34)、
前列右から2人目が筆者=
敬称略、2016年3月21日、杉本康弘撮影


 


















少し脇道にそれるが、チェルノブイリ原発事故についての26年の取材で印象に残ったことを書かせてもらいたい。

これまでに5回、現地を訪れた。最初は1990年6~7月。ウクライナとベラルーシ、ロシアを回った。

当時はソ連の時代で、取材は手探りだった。被災した人たちがどんな状況で暮らしているのか、ほとんど情報がなかった。住民への直接取材が可能かどうかも不明だった。

事件が起きたのは、取材を始めて4日目の6月17日だった。連載4回目で触れたが、ウクライナ・キエフ郊外の新ボロービチ村を取材中、私と通訳、乗っていたタクシーの運転手が兵士に連行された。その朝、誤って軍の駐屯地の写真を撮ったからだ。

駐屯地の15畳ほどの部屋に入れられた。レーニンの肖像画がかかっていた。アジア系らしい取調官が入ってきた。

「写真を撮ったか」「目的は」「なぜ兵舎に近づいたのか」……。スパイではないかと疑っているらしい。間違えただけだと繰り返す。「意図的に撮影した」と書かれた書面に「サインしろ」という。「しなければここを動けない」。サインすれば即出国、という雰囲気だった。

若い運転手が「外国人とみれば、どうしてスパイのように扱うんだ」と叫び、部屋から連れ出された。サインを拒み続けていると、取調官は「署名を拒否した」という書類をつくり、ようやく私たちを放免した。運転手は外のベンチで待っていてくれた。

約3時間後、午後4時すぎに村に戻ると、大歓迎を受けた。心配した村の人たちは、軍や行政機関、有力者に電話で働きかけてくれたそうだ。連行されるときにも、軍の車をとり囲んで「降ろせ」と抗議してくれた人たちだ。放免されたとき「また聴取があるかもしれない」と感じたが、結局なにもなかった。住民たちに守られたと思っている。

その後、96年と2001年、06年、16年にチェルノブイリを取材した。村の人たちは「あの事件の記者」と覚えていてくれて、村を越えて友人を紹介してくれた。新ボロービチ村は「チェルノブイリを知る窓口」になった。

国際原子力機関が「事故による健康影響はない」としていたころ、村の取材では「原発事故後の4年間で、医師の検診は2回だけ」と聞いた。現場の状況はくみ上げられているのか。「影響は子どもの甲状腺がんだけ」といわれたころ、村には病人と体調不良の人があふれていた。

村の人々、特に老人たちからは「納得できない怒り」を感じた。戦争が起きたわけでも、火事で家を焼かれたわけでもない。なのに人生の蓄積を捨てるように、故郷を去らなければならない怒りだ。

そして5回目の取材になった今年、福島や日本への関心と同情が寄せられるようになった。チェルノブイリは原則的に、土地の除染や地域への帰還はしない。日本は「除染して、できるだけ帰還する」という方針だ。チェルノブイリでは経験のない試みになる。(竹内敬二)